覚者慈音1514   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1514
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第四十一    自我心の清除法について
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.23


 先に語りし零コンマ零の境涯には、世人は未だ達し居らざるにて、肉体を有する間、一コンマ零の姿より、零コンマ一の境地に至り、更にその一を清除して零コンマ零となるの関係を、先づ考へ見るべし。世人は肉体に重点をおくによって、即ち一コンマ零の関係にて、零にて、零に相当する魂を軽視なし居るなり。然るに信仰の力が加はるに従って、零に重点をおくに至りて、ここに零コンマ一の姿と化せらる。さてその後はその一に相当する肉体を霊に化せしめて、肉体も霊と同化せしむれば、ここにはじめて零コンマ零の境涯に到達す。故にコンマの配置は大切なる事も推して知る事を得るならん。自我心は常に外部にはたらき居るが故に、有形の方向にのみはしり易く、無形のものには軽視する傾きあるによって世人の拝みはすべて有形に偏り、無形のものを軽視して為に無形のものを忘れがちとなるは、是未だ信仰のうすき故と拝みの誤りあることに留意せざるべからず。世人は外部と云へば皮膚の表面を聯想し、内部と云へば内臓の彼是を考ふるは是誤ちたる拝みなることに心附き居らざる故に、内部と云へば眼をとぢて内臓を見んとばかり、外部と云へば眼を開らきて外にのみ囚はれ居るにてはあらざるか。かかる内外の考へにては拝みは通ずるものにあらず。外部にも内部あり、内部にも外部ある事に未だ心附き居らざる事を我は知る。かく語らば世人は又も奇異の感に打たるるならん。世人は我子我親を我兄弟を見て、是を外部とは考へざるべし。その証拠には他人に対して是は我身内なりと云ふにてはあらざるか。此理より考ふれば血族性関係のものはすべて身内となる。身内はすべて内部なるべし。然して世人はみな外部に相当す。此事柄よりすべてに関して考察せば外にも、内あり、内にも外ある理は自づと理解なすことを得るならん。例へば身内のものに対して一つの要件をたのむ言葉と、他人にたのむ言葉とにも、自づと異なる言語を用ゆるにてはあらざるか。身内なるが故にかくせよと命令的の言葉を用い、他人にかくなしたまへとたのみの言葉にて発言なす。是内外異なる拝みにてはあらざるか。眼を閉ざして内臓を見んとなすとも、内臓の如何は見ることを得ざるべし。然るに世人は内観法と云へば直ちに眼をとぢ居るにてはあらざるか。又宗教者もかく教へ居るは何故かを考へ見るべし。眼を閉づるは外部の妨げをふせがんための拝みなるべし。耳をふさぐも又同様の関係あらん。然して見ざる聞かざる底の境地となりて、然して何ものかを見んとするは内観法の拝みに他ならず。ものを見、音を聞き、口に言葉を発すとも拝みの力すぐれたらばかかる造作はなさずとも可ならん。世人の拝みとはかく区別して様々の挙動を敢てし居れど、複雑多端の世の中は悉く汝の眼を耳を口を皮膚を通じて妨げをなし居るが為に、拝みは内となり、或は外となり、一定の方向に向はずして、彼方此方とさまよひあるによって正しき拝みはなすことを得ざるなり。

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