覚者慈音1513   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

 三世と四世論に釈迦もイエスも魂換させられて世に出でたる者と書かれた一節がある。自分の持つ主魂を天界からの援助魂の力を得て育成させる方法だ。釈迦キリストだけにとどまらず、世に聖者と云われた人々は悉くこの魂換の法によって自分の魂を完成させられている。慈音さんも魂換させられたそのうちの一人だとまた説かれている。釈迦、キリストも慈音さんと同じように天界からの指導者のもとで荒行を行ってきたに違いない。魂換によってその人の性格、生き方が一変するのだ。天は人類の進化のために特定の人々の魂を栽培育成をしてきた。決して自らの力だけで自得見性したのではない。



テッシン貴尊は光明論でかくお仰せになられている。

「慈音よ。苛立ち怒り悲しむ勿れ。二十年後の姿に眼を止めよ。暗中に一縷の光明は輝きそめたり。我等が汝に教へつつありたることは決して無意義にはあらず。汝は天界より是を見るあらん。我等の教へは次第に普及され、一部は削除せらるるあれば、一部は加わる等あれども原本はその儘残されん。各国は奪い合ひて是を読み、東洋は東洋人に、西洋は西洋人に委ねずば永遠の平和は望まれじとの声喧(かまびす)しくなり、日本を滅ぼすなかれの声、次第に起り来たらん。慈音よ汝の努力は決して無意味にはあらざるぞ。悲観せず気力を落とさず、教主の命に従い、生命あらん限り教へを受けて是を中外に発揚せよ」と


未知日記の書が執筆されて、あれから七十年の歳月が流れた。僕は日本人が読んでも難しいものがどうして外国の人が読んで理解することができるのかいつも不審に思って居た。そこで思い出したのはあの歎異抄だ。その書は長期間本願寺の僧侶(蓮如)によって封印され、明治時代まで禁書として扱われていた。やがて本願寺の学徒によって解禁されて一挙に拡散した経緯がある。
ネットで調べてみたら次の言葉見つかった。


ハイデッカー(ドイツの哲学者)曰く
「今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の『歎異鈔』を読んだ。
弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり
(歎異抄後序)とは、何んと透徹した態度だろう。
もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを生きがいにしたであろう。遅かった。
自分の側には日本の哲学者、思想家だという人が三十名近くも留学して弟子になった。
思想・哲学の問題を随分話し合ってきたがそれらの接触を通じて、日本にこんな素晴らしい思想があろうなどという匂いすらなかった。
日本の人達は何をしているのだろう。日本は戦いに敗けて、今後は文化国家として、世界文化に貢献するといっているが私をして云わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。
なんにも要らないから聖人のみ教えの匂いのある人間になって欲しい。商売、観光、政治家であっても日本人に触れたら何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。そしたら世界中の人々が、この教えの存在を知り、フランス人はフランス語を、デンマーク人はデンマーク語を通じてそれぞれこの聖者のみ教えをわがものとするであろう。そのとき世界の平和の問題に対する見通しがはじめてつく。
二十一世紀文明の基礎が置かれる」と。


又あの出家とその弟子の著者である倉田百三も次のように述べている。


「歎異抄は、私の知って居る限り、世界のあらゆる文書の中で、一番内面的な、求心的な、そして本質的なものである。
文學や、宗教の領域の中、宗教の中でも最も内面的な仏教、その中でも最も求心的な浄土真宗の一番本質的な精髄ばかりを取り扱ったものである」又
「世界のどの経典にこんな恐ろしい、大胆な表現があるか。ニーチェでも、トルストイでも、ボードレールでも、これを読んだら驚くだろう。トルストイの如きは、82歳の家出後において死なずにこれを読んだら、更に転心して念仏に帰依しなかったであろうか。」と


 きっとこの未知日記もあの歎異抄のようにやがて外国で絶賛評価されて、日本がそれを逆輸入するんだろうな。さてそれははたして何時の事か。時いまだ至らず。とても残念なことだ。いや、実に勿体ないことだ。悠久の太古の昔から、この宇宙を管理監督なされて居られる貴尊方にすれば、わづか七十年の時間など分秒にも値しない須臾の時間に違いない。僕は夢想する、次の世で生を享けたなら、自分で打ち込んだ未知日記の書一連をきっと、きっと読むに違いない。貴尊方は云う、「この書は今後末永く地球が残存する迄読まれ続ける」と其々の書物の中で断言されておられる。




覚者慈音1513
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第四十一    自我心の清除法について
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.23


 今迄語り来りたるところより世人は自我心も拝みによって、清除せらるるとの考へは抱き居るならん。されど世人の拝みは未だ徹底したる真の拝みの意味を解釈なし居らざる事を我は知る。先に語りし如く自我心は接続根なるによって最も大切なるものなれば、是を根底より切断するとの考へならば其は大なるあやまちに他ならず。根よりこれを切断すれば死するの他なしとは先に語りし如くなり。又是は切断せらるるものにあらず。肉体を有する以上小我の未だ大我に達せざる以上、是を根絶せしむることは思ひもよらざるなり。小我の斯岸より大我の彼岸にわたる海なれば、唯そのままになして船と云ふ乗物によって渡るにあらざれば望みは達し難し。此事も世人は既に承知なし居るならん。小我の我を船にのせて大我の我に至らしめざるべからず。されば海を渡るには、波風にたゆる堅牢なる船を作るにあらざれば中途顛覆の恐れあらん。堅牢なる船とは何かを仔細に検討して考案工夫せざるべからず。所謂船とは堅牢なる信力、即ち確実なる拝みに相当すとの意味は、世人にも察するを得るならん。

×

非ログインユーザーとして返信する