覚者慈音1512   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1512
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第四十    慾望の拝みと無慾の拝みとの関係
        インショウ、ミキョウ貴尊講述

              2019.10.22


 されば両者共に帰するところは何か原因ありての結果なれば、これみな慾望の拝みに属すと知るべし。かく説明なし居る時、欣情はかく聞かば如何にせば可ならんと迷ひの言葉を発したり。さもあらんと我はうなずく。大凡人心ほど迷ひ易きものはあらざるなり。此迷ひ易き心なるが故に、その迷ひ清除せらるれば確信となる。是も原因結果の法則よりかくは作られたりと知りて、その迷ひを拝みによって清めずば、無慾の拝みは得られずと思ひて、断間なく油断なく進まんことを工夫して又念じてたゆまずば、願望は成就せずと、一層意を強くして励むべし。慾望の拝みを無慾の拝みに変ぜしめずば、引力と圧力とは平均中和せざるなり。是を中和せしめんが為に我よりすぐれたるものを内外に求め居るにてはあらざるか。時には外を求め、時には内を求む。求めて得られざるが故に迷ひは深刻となるなり。求むるとは即ち慾望ならずや。その慾望をすてたる拝みに変へずば、正しき拝みとはならざるなり。前にもしばしば語りし如くコンマ零即ちコンマは自我心を云ふなり。零コンマ零悉くみな我なり。さればコンマは我と我れとをつなぐくさりなりと説きたる事も既に承知なし居るならん。然るに世人は自我心と云ふコンマを中心として相方に通ぜしめてコンマをコンマに重点ををくが故に自我心のみ強く働きて引力とならば圧力を空にし、圧力ならば引力を空にするが故に、一方に偏りて自我は清除せられず。為に何日迄も自我心のみ強く働きて引圧共に中和せず、常に争闘を続けて止むところを知らざる故なり。世人は他より恵を受けたらば其に対して感謝せずば申訳なしとの念ははたらくならん。他に感謝する心も帰するところは他より引力あるがために、我より放射する感謝の圧力となる。是等はみなコンマの自我心が相互にはたらき居るくさりにて、一見清除されたが如く見ゆれど、事実は清除せられたるにあらず、一時的の現象にすぎざる拝みに他ならず。されば拝みする真実の思ひは那辺に潜在なし居るやを、仔細に奧深く追究して、何かそこに新らしきもののあらざるかをきはめずば正しき拝みはなすことを得ざるならん。我先にも語りし如く神も拝みをなし居るなりと云ひしはここなり。神は世人を造りたる造主なるが故に完全なるものに組織せんとの慈悲心より拝みをなし居ると考へなば、神の拝みは世人に通ぜざる道理あらんや。慈悲心即ち拝みの極致なりと知らば、神の慈悲は世人の何処に感銘なし居るやに思ひを致さざるべからず。神に慈悲あり。世人に霊あり。霊は礼に通ずるにてはあらざるか。拝みとは即ち礼なりとの結論に至らば敢てこじつけと考へるに及ばず。礼は正しき拝みなりとして行ずるは正しと我等は思ふが如何に。もし世人は是をききて愚説と思ふならばそは世人の心任せとして我等は反抗するものにあらず。慾心の拝みは一方にかたよる。されば無慾の拝みにあらざれば中和の拝みとはならざる道理より無慾の拝みをなして三味一体と和して歩みを進めん事を冀ふ。三味一体とは零コンマ零の三味にて、即ち我、我、我の三つを一体化せしむる事を云ふと知るべし。

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