覚者慈音1511   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1511
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第四十    慾望の拝みと無慾の拝みとの関係
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.22


 我常に語り居る如く拝むとは世人の考えふる如き行ひと我等が語る意味とにはいささか相違なし居るが故に世人は拝みと云へば特殊の行事の如く考へ居るは誤なり。拝みとは文字の意味に囚はれずして行ふにあらざれば、我等が説明に反すと知りて行ずべし。我等の説く拝みとは文字に関係なく、今少し範囲を広くして行いにうつさん事を望む。世人の拝みは何事か求むる為に用ゆる拝みなるによつて範囲はせまし。我等の語るところは左にあらず。彼我の間に言葉を交はすも拝みなり。他を喜ばすも悲しますも怒らするも、皆拝みより出づるとの思ひを貯へて行ずべし。世人は手を合はせ頭を下げて神に祈るは是拝みなりと思ひ居れど、その拝まんとする事柄には慾望の為に拝むと、又感謝の意味にて拝むとの区別あるべし。されどその両者の如何に不拘、尚心の底に何か拝みせんとする特殊のものの潜在なし居ることに思ひを廻らさば、拝みの意味はうなづくところあらん。求むるが為に手を合はせ頭を下ぐるその姿のかげには、何か一種の解し難きもののひそみ居ることに心づかば、拝みとはなにかとの意味は、おぼろげながらうなづき知ることを得るならん。他人に何かたのまんとなす時言葉にてその意味を通ぜしめて、そのかげに言葉に言ひ現はし難きたのみの心ひそみ居ることに気附かざるや。彼によって希望を充たさんとはからんが為に用件を語るその用件の事柄は言葉にてあらはすことを得れど、彼にきき届けさせんとたくむ潜在の思ひは、言葉にて通ぜしむることあたはざるが故に、頭を下げて彼を拝み居るにてはあらざるか。何かの用件を彼に求むるは言葉の圧力と、頭を下ぐるは潜在意識より生ずるが故に二者此二つはみな圧力性にして、その圧力の力にて彼の心に通達せしめんとはかる方法にして、もし彼がきき届けじと謝絶するならば、彼の謝絶は圧力となりて相互圧力と圧力との争闘となるが故に、その結果は怨み憎悪と変ずるの理を考へ見よ。又彼はきき届やらんと承諾なしたるは、我願ひのかげの心に引力性となりて通じたるが故に、結果は満足すべき稔りとなる。故にその望みは変じて感謝と化せらるることもうなづくことを得るならん。故に我の世人にすすむる拝みとは、手を合はせ頭を下ぐるその心持ちを忘れず常に貯へさとりて用いよとすすむるなり。拝む心とは慾望を伴ふ。されど拝まずばあるべからずとの心には感謝と変ず。感謝の心は即ち引力性にして拝む心は慾望なるが故に是は圧力となるなり。

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