覚者慈音1510   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1510
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十九    人身を育つると精神を育つるの区別
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.21


 世人の願ひ多ければ多き程、気光素の力は彼にはたらくが故なり。所謂引力信仰圧力信仰は中和せられて発電せず、即ち陰陽の電気が等分となりたる境涯に慈音はおかれあるなり。陰電と陽電が中和すれば発電せずとの学理なれど、事実は中和なしても発電はなし居ることを未だ悟らざるが故なり。其は別として世人の修養修行は未だこの境涯に達し居らざるが故に、今後の修行は先づ霊は我にありとの思ひより霊によって引力を用い、我より我にかへさんとの思ひより引力を旨として修養の度を強くすべし。修養とは即ち引力に相当するが故なり。圧力を旨とせばすべては外に溢れ出づるが故に、空虚となる憂あるによって、先づ外より内へとの考へを忘れず励み居らば其にて可ならん。
 先に貴尊方が述べられし如く、世人は霊に背をむけ居ると仰せられしは是なり。世人の心は常に外部へ外部へとはたらき居るによつて、内は空虚となる。是を霊に背をむけ居ると仰せられしことに心を致せば、引力によって内部へ内部へと心をはたらかせば、即ち霊に和すると云ふ意味より考へて拝みをなさば、従って霊に和することを得るなり。引力によって蒐集したる事柄は霊の圧力によって外部へ運ばる。此力こそ霊のはたらき、即ち信仰心の現はれなりと知らば可ならん。我より出でて我にかへる法則より考えふれば我に入りたるものは我より出づるとの意味もあるならん。我に入りて我より出づるは、即ち我より出でて我にかへるの理と同じく、表裏の関係となる。引力が圧力に圧力が引力に平均せらるるは、鍛冶師の持つ鞴(ふいご)の其の如し。所謂肉体ありての精神、精神ありての肉体の関係も是に類す。されば肉体に重点をおかば精神は影となり、精神に重点をおかば肉体は影となる理も亦知らるるならん。此理より考れば両者一体の修養によって両者共に育てずば、完全なる信力は得がたし。是を一体化せしむるものは即ち零コンマ零に於て語りし如くコンマを巧みに応用するにあらざれば目的は達し難し。コンマは両者をつなぐくさりともなり、又両者を分離せしむる障碍物ともなる。是用法の如何によつて相違あるなり。コンマを清除するとは即ちコンマを除去するにあらずしてコンマを同化して零と零を巧みに一体化せしむるにあらざれば、信力は強大となることあたはず。零コンマと云はんよりは寧ろコンマ一と云ふは適当ならん。何となれば零は霊に合ひ肉体は一に相当す。魂と肉体をつなぐは即ちコンマなるによってなり。コンマ清除せらるれば身心共に浄化す。又身心浄化することによってコンマは自づと是に和して身心一体のくさりとなりてはたらく事に、考へを致して、初心者は先づ肉体を忘るることあたはざるが故に、引力によって肉体に浄水の肥料を送り、コンマと肉体とを洗ひ、然して霊に和する方法を用いずば信は得がたし。これを引力性拝みと云ふなり。信の力強くならば念は是に順じてはたらく。念は即ち魂に通ず。ここにも亦心と魂との間にコンマあることを考へざるべからず。零コンマ零とは即ち魂心を云ふにて、魂心の中にはさまるる障碍物をコンマと云ふなり。故に信力は心力に通じ、その心力は念力に通ずと考へなば、其にて修行の道は自づと明らかとなる理を工夫せんことをはかるべし。初心者は先づ肉体を旨とし、次に心を育て、更に進んで魂を育て事をはからば、其は正しく順路をふみたるにて所謂原因は肉体、心は経路、魂は結果となりて霊にかへす。これ因果の法則なりと知らば可なり。

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