覚者慈音1509   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1509
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十九    人身を育つると精神を育つるの区別
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.21


 大凡光気素信仰は法力を会得することを得れど、通力を得ること難し。気光素信仰ならでは通力は得難きことも従来述べ来りたる理論より推理すれば、明らかに推知することを得ると我は断言して憚らざるものなり。
 宇宙間に於て形あるもの既に必要なきは皆破壊されて他のものに変じ、更に又新らしきつとめをなし居れり。されど形なき霊気は是等の破壊組織をなす力あるによって永久に亡びず、はたらきを持続なし居るを我等は知る。故に人身に於ても形は変じて分解さるるとも、霊は決して破壊さるるものにあらざることも此理にてらしあはすれば不滅の理は明らかならん。我より出でて我にかへる理論より、修養修行の道を歩まんとせば、無と云ふは即ち零なり。零は霊に通ずと考へて是を有するものは即ち我なり。我には即ち大なる霊を持つ。此霊を信ずることに努力せざるべからず。我は遠きにあらず。又近きにあらず。此霊なるものは神に通ずるはもとより神より授けられたるが故に、我は存在す。さればあると思ふも亦なしと思ふも迷ひの種子となるによつて、ここに信と云ふ力を以て是に和する方法を考究せざざれば、目的願望はかない難し。然りとせば信ずる力は引力に依るべきか、又圧力によるべきかと云ふ大なる問題を解決せざるべからず。我等下界に於て行ぜし頃ここにてハタと当惑なしたるなり。師より痛棒をうけては泣き、教へられては是を感受するあたはず、苦しみ悶へしその時の姿こそ今も尚思ひ出して、感慨無量なるものあるなり。世人も行ずれば行ずるほどここになやみは生ずるならん。現在慈音はここにて今も尚悶へ居ることを我等は不便に思ふものなり。されど是が一度悟らば其にてすべては明らかとなりて光明は輝く。慈音にして不幸これを悟るを得ざれば世人の損失は多かるべし。早く願望を叶へしめんことを願ひやるべし。

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