覚者慈音1508   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1508
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十九    人身を育つると精神を育つるの区別
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.21


 若木に見事なる結実を得しは三才の翁にして、老木に小さき稔りをなさしめしは、即ち百才の童子となる。所謂三才の翁百才の童子と云ふ比喩はかくの如きの理由と思はば、世人の修養の道に於て何か思ひあたることのあらざるかと、己を省みて深く思惟し見よ。世人の中には百才の童子は多かるべし。又三才の翁は少なかるべし。世人の中には(日本の宗教)神仏を信仰して神社詣で、寺院詣でをなし居るならん。日本の神社宗教と寺院宗教の相違には何か異なるところあらざるか。又山嶽宗教と称して山の神秘を崇拝なさしめ居るもあるなり。我も下界にありし頃、寺院宗教より山嶽宗教に転向したる一人なりき。世人は寺院に詣でし心持ちと、神社に詣でし気分とには何か異なる感銘を抱かざるや。寺はにごり神社は清しとは感ぜざるか。是を心理的に解釈するならば一方は熱にして、一方は冷気なるが故なり。寺院には香をたき偶像を拝せしむるが故に自づと感じ来るものは人間性を覚ゆ。然るに一方は唯冷感を覚え身の引きしまるを感ずるによって従ってその感じは異なるならん。然りとせば寺院は情熱を覚ゆるによって是は光素に相当し、神社は冷気を感ぜしむるが故にこれ気素に相当す。わけて山嶽教の崇拝は山の神秘、即ち冷気なるが故に、これ又気素の部に属すと考ふれば、光素気素の理由とその現はれの異なる事は自づとうなづき知ることを得るならん。是を人身にあてはめて研究する時肉体にのみ囚はるれば、寺院宗教の光素となり、又精神にのみ重点をおかば、これ又神社山嶽宗教の形となりて気素一方に偏することとなる。故に光素を旨として気素を背後に伴ふ修養ならば、結果は光気素信仰となり、精神に重点をおきて肉体を背後におくならば是は気光素の信仰となりて実を結ぶと考へて修養せざるべからず。何となれば精神は永遠にして肉体は限度あるによってなり。されど肉体ありての精神、精神ありての肉体なるが故にあやまてば気光素ともならず、又光気素ともならずして中道信仰となりて終ること多し。よって心せざるべからず。釈迦ははじめ精神信仰を旨として、肉体信仰を背後におきたる為さとりをなすを得ず。ここに至ってはじめて心附きたる人身の大切なるを覚えて、はじめて気光素信仰をさとり、遂に一宗を開らくに至りたり。イエスに於ても同様の論説はあれどこれらは宗教者の説くところに任せ、我は宗教者にあらざれば多く語るの要なし。世人の思慮にまかすべし。

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