覚者慈音1497   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1497
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十六    一心一体となす修行について
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.17


 自然に従ひ、自然の法則によって行ふにあらざれば、目的は達し難し。太陽は四六時中光と熱を断間なく送り居るは、是引力か或は圧力かを考慮せば、肉体の一体化は自づと察することを得るならん。故に引力と圧力とは常に平均して用ゆるにあらざれば、光は引圧のせらるる毎に休止して、絶間なき光明の如くとはならざる道理も、亦推して考慮に入るる必要あらん。我かく語ることによっても世人の心は益々混乱して、名伏すべからざる悩みに陥り居ることを我はよく承知す。されどその悩みを起させて、然してその混乱せる心を起さしめんが為方便に説明なし居ることを世人には解するを得ざるならん。迷ひと信とを一つに化合せしむれば、かくも混乱せる心と化せらるることに思ひをはせよ。然らずば自覚自得は得られざるによってなり。唯語るを聞きて然あるかと察するのみにては其は知りたるにすぎず。迷ひ迷はさるることの多ければ、却て本心より自覚の道は開らかるることを我はよく知る。故にかく世人をなやませ居ることに思ひを致して益々悩みを多くせよ。然らずば正しき悟りは得られざるなり。人は何かのことに遭遇して驚き其極に達すれば、思慮も分別も尽きはてて、唯茫然自失の境涯に達するならん。この経験は世人にも見らるる現象なるべし。是等の事柄を応用して種々様々の法を案出したること多し。静座せしむるもその一法なり。静座は自力の方法にて、他力の方法には又棄身法と称して、鞭打ち肉体を苦しめて自覚をあたへしむる法もあるなり。是は専門道場にて行はるるものにて
世人にはかかる法を用ゆることをなさずとも、我今迷はせ居る事柄によって世人は迷ひ迷ひて遂には思慮分別することあたはずして悩む時、世人の身体に宿り居る霊魂の現出することによって、はじめて光明は輝き出づる結果となることを知るによって、かくは導き居るなり。ここに棄身法について面白き話あれば参考迄に語りをかん。

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