覚者慈音1498   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1498
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十六    一心一体となす修行について
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.17


 是はもろこしの話にて或仙人の許に於て多くの門人を集めて今日は棄身法を以て汝等を導かんとす。よって我命ずることに違背する勿れ。そは他ならず。汝等このみ嶽のほとりにある岩上より身を踊らさせてとび下りよ。然して生を失ひたるものは其にて猛獣の餌食とならん。されど生き残りたるものは凡て善人なるによって、行ずることを許すべし。斯く語りて徒弟を岩の上に導きて岩上より下を指し、先づこの下を観望して後飛べ。飛び下りよと命じたり。然して彼等は言葉の如く下を見れば、地上より浮き上る雲霧にて幾千丈ありやをすら判明せざるところなりければ、彼等はおぢけて誰も飛ばんとするものなし。此時仙人は杖を振りかざして、飛ばざるものは打ち殺すと身構へたれば、中には後方へ逃げ去るもあり、岩の上に腰をぬかして倒るるもあり、又余儀なく下に飛び下るものも二三名ありたるが、他は皆逃げ失せて影を止めず。飛び下りたるものの二三は死せしか、と云ふに然らず。暫くありて一人の徒弟その飛び下りたる三人をいざなひて師の許につれかへりたれば、師は笑いて汝如何なる心持ちになりしか。又此三人の飛び下りたる地点にて如何なる姿をなし居りしかと、いざなひたる徒弟に聞けば、一人は仮死状態となり、一人は眼を見はりて茫然たり。今一人は手を合はせ何かを拝し居たりきと答へぬ。仙者曰く、此手を合はせたるものこそ正しく悟りを得たるならん。又後の二人は今後確実なる悟りを得んと。此話は世人には不思議に思ふならん。仙人はかかる無法の振舞をなすとは実に言語にたえたる無法の沙汰なりと。実は然らず。この涯下はこんこんと湧き居る熱泉の煙にて高きにあらず。如何にとび下りるとも地面には種々様々の枯葉落葉の幾丈となくつもりて綿の如くなり居りて、決して肉体を傷くる憂なき場所なれば、唯徒弟を験する一つの方便道場の一部として使用なし居る迄なりしと云ふ。
 この方法は即ち瞬間統一法にして唯一時的の現象にすぎざれども、この実地を認識して常にこれを実行にうつし居らば従って習慣性となり、遂には長時統一をはかることを得るきはめて簡単なる他力法なり。又此法に類したるものの中に恐怖より生ずる統一法もあるなり。即ち仙人が杖を振り上げ打ち殺すぞと脅迫したる時、逃ぐおくれて岩上に腰をぬかしたるものは、是恐怖統一にて事実は統一なしたるにあらず。所謂百里を行くに五十里にて止りたると同様にて、一体化せずして未だその中に一方の心が残り居るが故に、二心が一つに集合なし居るにて二心休止の姿となり居るにて、事実の一体に化し居るにはあらざるなり。最後に至って飛び居りしものと又岩上に居るものが逃げ出せしは一方は正しき統一となり、一方は二心分離して偏りたる一心のはたらきにすぎざるなり。所謂逃げしものは一方心にして恐怖心の勝ちたるものにて、飛び下りし方は無我の境涯となりたる真の一体化なしたると見なさば可なり。この事柄より押し進めて考ふれば、一体心と一方心の区別は自づと察する事を得るならん。又自力の方法によって得たる一体心は自然につみ重ねたる習慣性の現はれにて、是は永久変ぜざる底に化せられたるなれど、行ふものが法をあやまるによって時には一方心となり、又正しく行ふことによりて一体心となる故に、自力法を修するものはよく指導者の教へに従ひて正しき方向に進まずば、一方心に化せられて終りを全うすることを得ざることに留意して、あやまらざるやぅ行ぜざるべからず。

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