覚者慈音1499   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1499
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十七    信力を厚うして気光素を作れ
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.17


 世人は偶像を祀りて是に帰依して、信仰心を強からしめんとはかり居ることも是一つの方便にすぎず。信力強ければ偶像すら光輝を放つ。俗言に云ふ鰯の頭も信心からと云ふが如く信あれば得ありの譬喩に他ならず。古来より大なる御堂を建設してその内に祀られ居る偶像は今尚世人の世界にあまた残存なし居るにてはあらざるか。伽藍の奧深く閉ぢこめられて居ながらその偶像は、多くの僧侶或は神主などを養ひて飢えしめずあるにてはあらざるか。是何によってかかる現象を見せ居るや。又神仏の祠堂などにては一枚の紙に印したる御符なるものを出して、其によって多くの人が救はれ居ると噂なし居るは、これ又何故かをよくよく考慮し見よ。現在の科学者が如何にこれを説明なし居るや。或者は云ふ、そは迷信なりと。又或ものは云ふ、そは或一種の暗示作用にて精神科学より是を説明すれば訳もなきいたづらごとなど云ふもあらん。然りとせば鰯の頭に光明を出させしとてそは何の益かあらん。帰依するものの信力の現はれがかくも鰯の頭に迄及ぶと云ふ譬喩を説きたる迄なるべし。信ずる力と云ふは即ち己に出でたるを云ふならん。己に出でて己の力が外部に及ぶと云ふ底の信ならでは力はうすし。偶像に力を与ふるも皆帰するところは我なるべし。我と我、我と我と多くの人が集りて出したる力が偶像に及びて、然して又その力が反射し来りて、多くの人を救ふ結果となる。是即ちこだまの其の如し。己に出でて己にかへり居るにてはあらざるか。簡単に説明すれば先づかくの如し。
 偶像は唯目標にすぎず。己が声は偶像にあたりて然して偶像より己に帰りたるに他ならず。かく考へ来らば自づと偶像を拝するは所謂己が声の何かの障碍なければ反射し来らず。故にその反射力を得んが為の障碍物として作り出されたるに他ならずとの結論を得るならん。偶像を祀るは所謂人心に信を与ふる一つの方策にすぎざることも推して知ることを得ん。現今学者間に於て月の世界に放電して験し居ることを我等は知る。然してその放電なしたるものが月界より反射し返り居ることを今尚気附かずして、月界より何か回答ありしと考へて盛んに研究なし居るを見て、未だ科学の幼稚なることを我等は悲しむものなり。恰も偶像を祀りて帰依し、信仰なし居るに類す。其は別として世人の信仰は慾望を抱くが故にその結果は光気素信仰となりて現はるる故に、我より出でて我にかへり来らば従って光気素のはたらきにすぎず。光気素のはたらきは力きはめてうすし。偶像崇拝は所謂光気素結果となる。されど世人の世界は所謂こだま会にて述べたる如く、未だ幼稚園に等しければ先づ光気素電気を応用して、我より出でて我にかへり来る方法より順次進みて、これを完全なる気光素電気となる迄の信仰に進まずば、正しき悟りは得られざることに思ひをはせて、ひたすら研究工夫することに努力せざるべからず。

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