覚者慈音1500   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述



覚者慈音1500
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十七    信力を厚うして気光素を作れ
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.18


 信仰の力を念じて小我より大我に至り、然して大我より更に天界に進むにあらざれば、人道を全うすることは難し。世人の行は光気素信仰を旨として気素の大事を知らず、いささか智識すぐれたる人は気素の信仰のみに走りて、光素の信仰をなさず故に是等は一方的となるなり。されば光素と気素を巧に塩梅して光気素の信仰を作りて、小我より大我に到達せざれば、後の気光素信仰は得られざることに心せよ。
 我、かくせよとか、かくなせよとか語り居る言葉に対し世人は命令的の如く誤認誤解する勿れ。せよと云ふ言葉は決して命令の言葉にもあらず。又威圧の言葉にもあらざるなり。所謂確言後にして我等が事実研究なし遂げたるが故に用ゆる言葉なりと知るべし。もし我等にしてなさば可ならんと云ふが如き不確定の言葉を発しなば、世人には迷ひを深めんことを慮ってかく断言なせし事を承知せられたし。世人は神なるが故にとか或は位高きが故にとかの思ひをすてよ。かかる考へは修養修行に大なる妨げとなるによってなり。我等は人にもあらず神にもあらず、修養修行の道を全うなしたるものに他ならざるが故にその実験の結果を世人に示めし居るにすぎず。是等の事柄より世人は修養修行に対して認識を変更せずば、正しき光気素信仰或は気光素信仰の体得は得られざるが故に、ここに一言以て注意なしおくものなり。
 大凡世人の信仰の心を我等は験するに光素信仰の人は多くして気素の信仰者は稀なり。一例をあぐれば世人は神仏に帰依してすべて己が身心を神任せ仏任せになさんと計り、又人にもかく伝へ居れど事実その人の心を見れば然らず。神に仏に任すとは表面にて、内心には尚不安の思ひを抱き居るを我等は知る。任すと云ふは凡てを委ね尽すにあらざれば任せたりとは云ひ難し。例へば己病苦になやむ時すべてを神にまかしたる人ならば如何に苦しくともすべては神の命なり、仏の慈悲なりと思ひてその苦しみに堪ゆる人は少なし。早く医師を招きて薬を得んとして、その時すでに神より仏よりはなれ居ることを我等は知る。神仏はもしまかされたりとして、此病は早く医薬をもちいずば根治せずと考ふるならば、直ちに医薬を与へ給ふならん。然るに神仏に任せながらもし此病が手おくれなして医薬のお及ばざる時は如何にせんなど、不安の起る任せかたなれば其は光素の信仰に他ならずと考ふべし。かかる信仰なるが故に己願望を起して帰依しその願望成就せざれば、神より仏よりはなるる底の信仰をなし居らば、是すら光素の信仰を果したりとは云ひ難し。

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