覚者慈音1496   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1496
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十六    一心一体となす修行について
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.17


 自力を圧力と見なして考ふれば、他力は引力となる。又他力を圧力として考ふれば、自力は引力と見なすことを得るならん。所謂往復の鉄路の如き関係あるによってなり。行くものは帰り、帰るものは行く。此理より考察せば進むものは退き、退くものは進むとの意味も含まれ居るならん。進みては退き退きてはすすむ、一進一退即ち歩みの其の如し。一歩すすめば一歩は退く。是未だ一心にはあらざるなり。一歩すすみ一歩をくるるこの歩みの止まるところ迄達せずば、一心とはならざる道理を知るならば、修養修行をなさざれば其にて終りとなることもうなずかるるならん。中途にて歩みを止むれば其迄にて心は終る。是を具体的に語るならば百里の道を歩まんとして五十里にて歩みを止むれば半ばにて止まりたるが故に、目的の地点迄到達することは難からん。世人は此分かり切りたる事柄を人身にとり入れて考へを廻らさざるが故に、常に半途にて迷ひ居るなり。目的地迄達せずば単線の鉄路の如くなるによって、二心或は一方心となり居りては、あやまてば衝突する他なかるべし。進まんとして前方にのみ囚るれば、其は圧力に偏りて引力は影となりて従ふの他なく、又引力性に心奪はれて用いなば圧力は影となりて従ふの他なし。圧力引力常に平均してはじめて一体となる関係あらん。先に語りし鍛冶師の鞴(ふいご)に於て是を験せば、手許に引ば前面は引力となり、手許は圧力となる。又前方に押せば前方は圧力となり、手許は引力となりてあふれ出づる空気は断間なく送らるならん。されど是は正しき一体にあらず。正しき一体とはあふれ出づる空気が断間なく送らるるあらざれば、真の一体とはならざることより工夫するの要あらん。何となれば鞴は引くと押すとの瞬間に一時たゆることあるによってなり。是を肉体にて考ふる時脈搏が正しく打ち居る如く思はるれど一搏々々の間にいささかの休みあるによって、恰も鞴の如き関係となり居ることも知らるるならん。四六時中脈は休止なし居らずと世人は考へ居るなれど所謂一搏々々の間に、いささかの休止あるによって自づと休養はとられあることも推して知ることを得るならん。休みなきと思はるる脈に於ても休養はとられあるなり。されど四六時中休養せざるもののある事に世人は心附かず、唯肉体にのみ囚はれ居て眠れば其にて休養は行はれ居ると考ふるならん。余事にわたりたる如き感あり。されば説明を他にかへて語る事とせん。
 身心一体となすには如何なる法を用ゆれば可ならんかと云ふに、先づ法を知るには原因と結果を考へざるべからず。世人は夜旅をなす時、夜の明くる迄何か灯を用いざるべからず。道を照らす提灯とか、或は松明とか、或は電灯とかを用意して夜の明くる迄の時間に対して其相当のものを用いざれば、中途にて消滅する憂あらん。夜旅するには此準備こそ大切にてはあらざるか。暗黒の中を歩むには光明と云ふものの大切なることより、人心にとり入れて考へを廻らし見よ。世人の迷ふと云ふは即ち暗黒なるが故に迷ふならん。ここに明らかなる光に照らさるれば迷ひはあらざるならん。即ち世人の世界は暗黒なり。世人の旅は此暗黒の中を歩みするならん。然りとせば大切なるは光明なるべし。世人の霊心は即ち光明を出す原動力にてはあらざるか。その霊心は世人の肉体に宿り居るとして考ふる時、肉体を燃焼物と考ふれば、心は光を発する力あることを先づ考へざるべからず。所謂肉体の提灯、心の蝋燭を点じて、霊の輝きに従ひて進むと仮定して研究工夫し見よ。もし提灯が破れ居らば心の灯火は消さるるならん。又心の灯火が短かければ又消滅も速ならん。故に提灯と蝋燭と光と三味一体化せずば、霊の光明は得られじ。是を一体化せしむるには如何なる法もあるにあらず。

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