覚者慈音141  未知日記講義第一二巻  大霊界  空の信仰、虚の信仰 その2  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO97
      
空の信仰、虚の信仰          その2
                                                                            教主寛大 講述


 兎に角空信と虚心は相似て異なる区別あり。汝等諸子の想像はすべて虚心に属すること多かるべし。我等が語る神を信ぜよと云ふ言葉も諸子は誤解して、神とは空虚のものなりとして信ずることあたはず、迷ひを深くなし居るなり。溺るるものは藁をも掴む。叶はぬ時の神頼みと云ふ言葉さへあるならん。人間の智慧には限度あり。又用法によっては限度はあらざるなり。限度を有する智慧は即ち虚心なるが故なり。限度を有せざる空智にかへよ。然らずば伸び行くものにあらず。虚心は迷ひなり。故に行き詰まりを生ず。空信とは迷はざるが故に、はてしなく伸び行くあらざれば、空信とはなり難し。ここに神と云ふ便宜上一つの目標を定めて、そのものを目標として伸び行く力を養成するなり。限度なくはてしなく延び行きて、神と云ふ目標に迄到達なさば、その処にて行き詰まりとなる。その行き詰まりこそ即ち神の境涯なりと考ふるも差支なからん。神と云ふあてにならぬものを目標とするは、これ虚頼みにてはあらざるかと諸子は考ふるならん。然るに其は虚頼みにあらず。空の頼みなるが故に、はてしなく延びもし且つ、延ばされもするなり。我は神によって造られたるものならば、神に順じて従ひ居らば、何時かは神の位置に迄到達するは当然なりとの確信を得るひとこそ真の信仰者なり。「何事のおはしますかは知らねども、勿体なさに涙こぼるる」と云ふ、短歌のある如く、涙こぼるる底に迄化せられ行かば、決して神を離るるものにあらず。汝の親は今は死して世にあらず。されど親ありし為、我は生れたるなりと云ふ信仰ならば、其はそらだのみにあらず。空の信なるによって我を産みし親は何処にありや。その親に今一度対面したしとの心より親を慕ひ行かば、汝の親は汝を離るるものにあらず。常に汝に来りて汝を守護せん。其と同様にて、我は神より造られしものならば、造り主の神を信じ居らば、神は我を離れ給はずとの念を貯へて、其に依って生活することをなす底の人にあらざれば、神の有無を知ること難し。我、神を信じ居るに不拘、神は我をしてかかる苦みを与へ給ふ。もしまこと神あるものならば、神は我にかかる苦痛を与へざるべしなど考へて、迷ひを深くする人は神と我と共に生活するにあらずして、神より離れんとするが故に、分離されて虚だのみの方向に枝葉を延ばす結果となるなり。我が心は空なるに不拘、我身を愛す。これ手近き処にさとりあるにあらざるか。空なる心が実なる我身を愛するが故に、日々の生活をなし居るならん。さればその心を種々様々に変化せしむるものは空なるべし。その空とは神なり。その空の方向に歩を進めて、心の空と神の空とを、同化せんことを祈るは、神に接する姿なるべし。故にそらだのみにあらず。

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