覚者慈音140  大霊界  空の信仰、虚の信仰   教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO96
      
空の信仰、虚の信仰          その1

                                                                            教主寛大 講述


 物事を信ずると云ふは智慧の如何による。智慧のすぐれたるものは確定したるものを信じ、智慧の劣りたるものは迷ひ多き為、不確定をも信ずるによって、此処に掲げたる空の信仰、虚の信仰の二種となるなり。衆人の中には不確定なるものを確定と信じて、其が為に過誤多きを我等はよく知る。愚者は迷ひ賢者は惑はずと云ふ教へのある如く虚心は迷ひなり。空心は迷はざる信仰を指すと承知せよ。
 此処に一例をあぐれば、衆人は千金を得んとの望より一個の事業を計画し其が次第に意の如くなり行かば最早成立したるものと心得て、始めの計画の如く千金を得たる如き考へより、半にして千金の持ち主の如く振舞をなす人多からん。是等を虚の信仰と云ふなり。千金を得ずして千金を得たる如く振舞ふは正しき行為にあらず。故に、虚心となる。其が全く望の如く千金を得たる後にて、千金の振舞をなす人にあらざれば空信とはならざるなり。信仰なき人が他より此神を信ずれば富者となると教へられて、其神を信ずる如きは虚心なり。病人が神を信じて治癒を計る目的にて、信ずる如きは是又虚心なり。汝等衆人の信仰はすべて是等に類したる信仰者なるが故に、虚心に陥りて空信を得る事を得ざるなり。福利のため或は病弱より神を信ぜんとするは一般衆人の風習にて、その弱点につけ入りて邪宗教者が種々様々虚心を伝へ、己私腹を太らせて神は有難しと称し居る、不逞の輩が多くあらはれ居ることは実に滑稽と云ふの他なし。損失を招くものは信者にして、利を得るものは指導者に帰す。斯る戯けたる世の中にありて、真の神を信ずる人の少なきは当然なり。現今汝等衆人の世界に現はれ居る宗教者を見よ。寺院を立派に建設なして得々たるに引き替へ信者の中には己が資産を失ひて其が神の思し召しなりとか称して、余儀なき諦らめをなし居る人さへ多きを見る。是等のすべては虚心の結果に他ならず。
 余事は兎に角虚頼みの信仰者は、如何に努力すとも到底望は達し難し。故に空信ならざるべからず。優智者は空信を知り。劣智者は虚心に陥り易し。迷信妄信を信ずるは劣智者にして、正信確信を知るは優智者なり。空信と云ふは智慧のすぐれたるものにあらざれば知ること難し。空信を得んとならば宜しく智慧を研くべし。空信虚心はすべては智慧に帰す。
 我等、かねがね語り居る如く人にはみな其々異なりたる天分あらん。其授けられたる天分を全うする事によって、職責は果されたるなりと教へ居りしは是なり。学者にはその学問に対する智慧あり。芸術家には芸術に対する智慧あり。されば種々様々の事柄を見聞し、その見聞したる実際をすべて己の職分に引き入れて、其によって智慧を伸ばす事を肥料を与ふると云ふなり。他より色々とまなびたる事柄は天分の肥料になしてこそ、発育は旺盛となることは異論の余地なからん。然るに諸子は己が本分を忘れて他より聞かされたる事柄に囚はれて、そのものを肥料とはせず育つるによって雑草は繁茂して、己の職分を枯死せしむる結果となるなり。職責全うする事を得ざれば天理に反す。故に動物性を離るる事を得ざるなり。例へば汝等日本人の中には八百万の神と称して、多くの神の名目を称へ居るならん。是等は皆其々の分野に応じて附せられたる名目に他ならず。神とは一なり。然るに多くの神の有するは、恰も人間というふものに対して其人々に与へられ居る姓名と同様にして、此事を頼むには此人に縋るは宜しと思ふと同様なるべし。所謂学問には学者を頼み、芸術には芸術家を頼み、それらによって教へを受けんとなすに等し。換言すれば皆それぞれの道に対して、専門的の指導者を求むると同様の関係となるならん。火之神水の神と区分すとも、神と云ふに変化なからん。何の誰何処の誰と姓名を異にすとも、人と云ふに変わりなし。帰するところは一なるべし。即ち便宜上仮に名目を附したるにすぎず。聊か余事にわたりたり。もとに復すべし。

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