覚者慈音1469  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    厳戒の辞の説明(重要事項の説明)   インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1469
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.9.30
第二十八    法力について
        厳戒の辞の説明(重要文章)


 自問自答是最初の教への法なりしならん。光明論に於て語られし厳戒の辞是また法なるべし。然してその大切なるわずか八文字の言葉の範囲万般にわたり居る道理も推して知ることを得るならん。恰も赤子の泣き声一つにて訴るに等しと考へなば、その八文字一五文字の意味の深きことは、神によって観察さるる道理も推して知ることを得ん。赤子は母を知らずして母に抱かる。汝は神を知らずして神に抱かれ居ることを、よくよく考慮しよくよく自覚認知せよ。是即ち法の大意なり。
法はむずかしきことにあらず。きわめて至極簡単なることを知らば、凡てのものを箸とり喰う術も従って会得する事を得ん。汝は修行して智慧を求むるに及ばず。唯信念を深くなすことに意を用い居らば、それにて神の力が汝に宿り、その宿りたる現はれは即ち智慧となりて汝を救ひ給はん。故に貴尊が仰せられし神を知らずともよし、汝の心に神を作りなば如何にと仰せられし事の理も従って明らかとならん。神を作れとは、即ち汝の心を汝の魂を常に清浄にして濁りなきものになせよとの教へを深く認識せば、それにて神は汝に来りて汝を強くするならん。要は即ち邪念悪念を排除なさざれば清らかな水は得難し。濁れるものを排除するには信念と云ふ力を必要とするなり。信念を深くする法とは何か。
所謂拝む心、祈る心、念ずる心なるべし。それには何に依ってなすべきか。即ち、厳戒の辞を朝夕油断なく用い、汚れを拭ひ去るにあらざればあるべからず。

 又仏法を信ずるものは常に阿弥陀を念ずるとか、或は観音を念ずるとか
皆それを教へあらん。是によって直き心に磨き上げなば法は完全に行はれん。又イエスをたよりとして神を求よと云ふに対しても是又同様の関係あるなり。各宗派異なれど教への法則は一つなることに着目せば、すべての法力の事柄は自づと会得理解する事を得ん。かく語りても世人には通ぜざるか。

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