覚者慈音1470  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1470
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.10.01
第二十九    通力について


 水は方円の器に従ひ人は善悪の友によると云へる諺あり。又仏教の経文に「水清うして地に徹す。魚踊って魚の如く鳥飛んで鳥の如し」と云ふあり。水は方円の器に従ひてはじめて水の本分を全うす。是偽りにはあらざるなり。又清くなれば地に徹す。是又水の本分なり。魚又然り。鳥又然あるなり。皆其々の分野に従はばすべては通ず。通ぜざるは分野の責務(つとめ)を全うせざる故ならん。薬石は量よつて薬ともなり又毒とも変ず。通力も亦然あるなり。適所適宜に用いざれば通ずるものにあらず。量をすごさば毒となる如く通力も亦同様の関係あることに思ひを致さざるべからず。
 世人は通力の意味を原因よりたしかめんとはせず、中途より観察して不可思議のものの如く考へ居るは一般のならはしなり。故に通力と云へば不可思議の法術の如く思ひて好奇の眼にて是を眺め、又己もかかる事を行なはば定めて楽しかるべしなど思い居るは笑止の沙汰とや云はん。仙人が雲に乗って空をかけまわるとか或は風を起し雲を起し雨をふらすなどは是通力を得たる故なりなど不思議の感に打たれて、仙人と云へば神の如く尊く考へ居るは是又愚なることなり。通力自在と云ふはかかる魔法術を行はんが為に修行修養するにあらず。かかる法術はみな悉く原因ありて結果をもたらしたるにすぎずして、根底をただせば決して不可思議なるものにはあらざるなり。先に述べし泰岳の如きは如何なる法術を教へらるるも容易に理解することを得ざる愚鈍のものなるに不拘、学ばぬ事をも己なさんとすれば法術を知らずして実行は現出する不可思議の徒なり。師は彼の特性を知るによって法術は彼に教へず。されど彼は一度その法術を扱ふものを見ば忽ち是を己になすことを得るなり。然して彼の法術は他に比して勝れ居るを見て他の弟子達はただただ奇異の感に打たれ居るにすぎず。彼には神を知る力具備はりあるによって、自づとそなはる神徳とも云ふべきものの現はれならんと、師も亦舌を巻きて感じ居りて、弟子達に向って法力行力法術は知らずとも、信仰の力強ければ、必ずや彼と同様のことをなす威徳自づとそなはるならん。故に信力念力を厚ぅせよとすら教へ居りしなり。我等も是に化せられて彼の威徳に同化する信力を養ひたる結果、却てその妙に接するを得て我等の法術も従って発達するに至りたる悦びを彼に感謝なし居るなり。信念の力すぐれたる人は学ばずして法術を案出する力も生ずるものなり。

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