覚者慈音1467  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1467
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.9.30
第二十八    法力について


 一句の言葉唯阿弥陀と唯三文字によって凡てを清除することを得るならば是程尊き且つ意味深き法力はあらざるべし。然るに法力とはかかる単純なるものにてはあらざる如く考ふる世人こそ、実に智慧あさきものにて此阿弥陀と称ふる言葉によって何故救はるるかを認知するには、容易の事にては把握せらるるものにあらず。是等の心理状態は万法を一法になしたるにて至極簡単に約められ居る事を知らば、朝夕断間なく油断なく此三文字の布巾にて己が心を磨かば、最後は往生極楽の仏となる理は認知することは難からず。法力とはむづかしき行を重ねて身をいため心をいためずとも、手近き処にかくも簡単なる法力は現はれ居るなり。世人はむづかしき事に心を止め居るによつて却て行を修めんとはなさざるが故に、従って徳も得られざるなりと、よくよく反省して行ぜば日々の行ひをなしながら心も魂も共に磨かるるに至らん。教主の仰せられし如し。
 一法を修すればとは何か。其には大なる意味含まれある事を世人は考慮に止めざる故なり。教主の仰せられし一法その一法の現はるる根底に逆上って考慮し見ば、法は何処より生じ来りたるかを先づ知るの要あらん。法の根底とは何か。世人は法とは特殊のものによつて行はるるものと解釈なし居るはあやまりなり。法の起る根原は赤子の頃より既に現はれ居ることを世人は念頭におかざるならん。赤子は生れて直ちに法を行ひつつあるなり。是法の根原なり。かく語れど世人は何の意味かを諒知することを得ざるならん。赤子は法なぞ行ひ居らずと考ふる故に法の実をする事を得ざるなり。赤子の泣くは既に法を行ひつつあるなり。言葉なけれどその泣声を聞きたる母は今は便通を訴へ居る泣声なりとか、此泣声は飢えを訴ふる泣声なりとか、或は此泣きかたは肉体にいたみを感ずる泣声なりとかを知りて其々の手当をなすなり。されど子を持たぬものには唯泣くとのみ考へ居るならん。赤子は多くの人の中より是は我母なりとか或は父なりとか云へる如きことを知るにあらず。唯泣声に託して己が様を訴へ居るにすぎかず。是即ち赤子は法を行ひつつあるなり。法の根原とは即ち是よりはじまる。無言詞の法とは所謂是なり。赤子は母を知らざる如く、世人は何れを我を守る神なるかを知らざるならん。道理は一なり。道理は是に類すと考ふれば己が心の持ちかたによって、神は是を理解なし給ふことも従って故なきにあらずと何故考へ来らざる。斯く考へをめぐらし来らば法は学ばずとも自覚し得る道理あらん。世人は自を求めず、他を求むるによつて却てものの存在を認知しあたはざるなり。赤子は唯泣き居るとのみ思へど、彼の母は此声によって其泣きかたによって様々の事を理解なす如く、神も亦世人の心の動かしかたによって何を求むるや、何を願ふやを知り給ふことに着眼せば、汝は神を知らずとも神は汝を知り給ふが故に其心の働かせかたによって其々に対して手当を下さるることは、恰も赤子に対する母の如しと考へなば法は学ばずとも修することを得るならん。

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