覚者慈音1466  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1466
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.9.30
第二十八    法力について


 世人の知りたきことは信力念力を如何にして作り育つべきかを願ひ求むるならん。唯聞きて知るのみにては会得は困難なりと心のみあせり居るを我等は知る。然れば信ずる力或は念ずる力は、何処より来り何処に種子は下されて発芽するやを、先づ考へ見る必要は あらざるか。何を信じ何を求むるや。今日迄我等口角泡を飛ばして世人に語り居る事を世人は如何に把握なし居るやに対して我等は不審するものなり。斯く迄貴尊方が理を尽し誠を尽して説かれ居るに対し、世人は是を実行にうつさんとはせず、唯聞き流し見のがし居る結果手を束ねて傍観なし居るなし居る姿にてはあらざるか。不審の点あらば遠慮会釈なく突き進みて己が意志を貫徹せんと計ることを何故なさざるか。理非曲直を考ふる隙あらば何故その理非を己が心より判断なして然してその真髄をきはめんとはなさざるか。我等が説明を世人は唯感受するのみにては、そは一方的にして恰も空吹く風の如し。今欣情が語る如く数種の珍味佳肴をならべらるるとも食するを得ずば甲斐なしと語り居るにてはあらざるか。何故その珍味佳肴を口にせざるや。喰はずば味はるるものにあらず。箸をとる術を知らざれば何故その術を考へざる。何事も教へらるるがままに任せ居りては空しき光陰をすごすに他ならざるべし。所謂箸とるすべとは法なり。法力を知るにあらざれば食は口に運ばれざるべし。
 法力の範囲はきはめて広けれど教主が仰せられし一法を修すれば万法に通ずと仰せられし如く、法力も亦一体化すれば万法は容易に認知することを得る道理を先づ考へざるべからず。他力宗が教へ居る何事も凡ては弥陀の本願を信じて唯念仏せよと教へしは即ち法なり。至極簡単なるが故に却て世人は種々様々の思ひより、かかる簡単なる事にて往生極楽するとは余りに無造作の感を抱き居るが故に念仏をおろそかにするならん。法を余りにむづかしく考ふるが故に却て勝れたる法力をなほざりにするは是常人の悪癖と我等は慨歎に耐えざるなり。

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