覚者慈音1465  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1465
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.9.29
第二十七    念力について


 念とは種々様々に分布したる心を一にして他を顧ず、一路邁進するを意味す。故に念と云ふ文字は分れたる心を一体化して一つのやかたに収めんとする象形文字なりとも伝へられ居るなり。その真偽は別としてとかく念は一つの事柄に重点を置きて、其に対して運ぶ術を磨くを云ふと考ふれば、うなずく事を得るならん。故に信ずる力を強くして念を磨かば如何なるものに対しても貫徹することは疑ひの余地なかるべし。前にも述べしかの泰岳はなやめる者の枕辺に座したるのみにて、何等の術を施さずして、その悩める者を救ふを得る力あるによって、我等彼に対してその法を学ばんと彼に教へを乞ひたる事ありき。然るに彼は我、何も知らずと答ふるのみ。又彼は己が杖を遠方より杖来いと喚べば、杖は彼の手に来りて握らる。是等の事柄を語るとも世人の常識にては到底信ずる事あたはざるべし。所謂念の力はかくも不可思議なる働きをなす。経文の中に観音の力を念ずればと云ふあり。観音の力を念ずる事によって何事もあたはざる事なしと云ふ事柄に対しても、世人は唯々不可思議として半信半疑に心を止め居るのみならん。然るに経典には正しく伝道され居るにはあらざるか。然るに現在の僧は此理を知らずして唯かかる力を有する観音なるが故に、念ずれば忽ち現出すとの広大さを念にうつして否念に喩えて其が力の程度によりては、凡てを克服することを教へ居るにて、真実には信念の力の勝れたる事を説きたるにすぎずと、苦しき説明をなし居るを我等は聞く。そは現在人に於て文化の程度より是を計り知る事の至難なるを知りてにもあらず。己自らがその意味をその実を認知なし得る修行をなさずして、唯宗教をひろむる一つの材料として説き居るにすぎざるなり。
 泰岳の如き一般人より愚者と云はるるものに於て自然にそなはる大徳は斯くも大きくはたらき居るも是皆信力念力の強大なるによるなり。世人の中にも「岩をも貫す桑の弓」と云ふ譬喩あるを知るならん。又「虎と見て石にたつ矢のためしあり」など念の力の強き事を示めしたるならん。伝説の中に於ても獅子に喰はれんとする我子を見て、母はその子の為に否愛の為に身をすてて無事に子を救ひしと云ふためしもあるならん。一念こらば其力は程度の強弱に従ひてはたらく故に信ずる力を基礎として念力を育つるにあらざれば正しき動きを得ること難し。法然は信者に対して一向に念仏せよと教へしも、念は学問によつて得らるるものにあらず。又悟りの法によって得らるるにもあらず。所謂自然にわき出でて自然に育つその力こそ、即ち念の結晶とも見て差支なからん。念と云ふ事は解し易き言葉の如く思はるれど、実は文字にては是を仔細に示示めすことは難し。現今の学理にて電気の根原は何なるかを知る人はあらざるべし。又是を知り得たりとするも文字によって把握せしむる事は至難なるべし。念と云ふも是に類する関係ありと思ひて唯学理とか理論とかをすてて一向に念ずる力を養成するに努むべし。信力なくんば念力は不必要となる。信力と念力は親子夫婦の如き関係ありと見るも亦差支なからん。

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