覚者慈音1462  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1462
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.9.29
第二十六    信力について


 大なる真髄とは何か。所謂我より出でて我にかへると云ふ理論を推考してきはめなば自覚は容易なるべし。我より出でて我にかへるの理を考へ見よ。即ち出でたる我返へる我、是我と我との対立なるが故に彼の我と此我とは同じ我の如く思はるれど、対立なし居る彼の我とこの我は即ち相対の関係ありて、其二つが一体化してはじめて真の我となり、従って我の力は強硬にはたらく故に尊きものは我なりと云ふ結論に達せん。然るに世人は我を知らず、唯我身体を我と思ひ誤りて常に迷ひを生じ、信ずる力のはたらきは他より受くるものと誤認なし居るによって、迷ひは深刻となる結果自覚の大事をきはむることを得ざるなり。いやしきも我尊きも我なるべし。自尊心のつよきと云ふも即ち我を知るが故に生じ来る一種の現はれに他ならず。己力なくして唯自尊心のみ強くすとも其は彫刻したる仏の姿にて、是は魂のこもりたるにあらねばその力は唯誇るのみにして何等の価値もなきなり。小我をすてて大我を得よとは此理を云ふなり。されば大我を得たる人の力は強大にして尊けれど我を知らざる人の力は薄弱にして唯優越感のみ強くとも何等の価値もなかるべし。信ずるも我なり、信じてその力を発揮さするも我なり。兎に角貴尊方が語られし如く汝等は我ありて我を知らずと仰せられしは是なり。我と云ふもの何処にありや。あるが如く又なきが如き我にては真の我を知ることを得ず。故に自覚なしたる底の我ならでは正しき我を発見すること難し。いやしきも我なり。尊きも我なり。されど我と思ふは我にあらず。我と思はざる我にあらざれば真のさとりは得られざるなり。
 神は汝等にこの大なるものを授けられたる事を知らば、我の尊く且つぐれたる事を知りて唯々感謝するの他なきに至らん。世人の思ふ我は、我とは即ち枝葉を考ふるのみにて根に有する大なるものに着眼せざることも、推して知ることを得ん。例へば果実を考ふる時、結びたる実を我と思はば其はあやまりにて、根を我と思ひ稔りはその使命に他ならず。根の我を知るにあらざれば、使命の結果は明らかに認知することを得ざる関係をよくよく、考慮して真の我を悟ることに留意せざるべからず。

×

非ログインユーザーとして返信する