覚者慈音1463  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1463
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.9.29
第二十七    念力について


 信力は我より出でて我にかへる現はれなりと考ふれば、念力も亦我より出でて我にかへる力なるべし。されば信力の根は栄えて幹をつくり、然して後枝葉果実をつくるに至ると見なすならば、念力は根よりふとりたる幹に相当するならん。信力と念力は根と幹との関係あるによって不可分なり。根をはり幹をふとらさば枝葉果実も従って見事に繁茂するは当然なるなり。されば信ずる力にて根を確実にひろげ、念の幹をふとらす工夫をなさざるべからず。例へば世人がものを信ずるについて考へ見るべし。或名僧の教へに「欺かるるとも信ぜよ」と云ふ言葉あり。是に対して世人は如何に考ふるや。欺かるる如き信は真の信にあらず。所謂愚者の信なるべしと思ふならん。名僧の教への信は真の意義は世人には理解し難かるべし。欺かるるとも信ぜよとの信ならでは正しき信にあらず。小さき一例をあげて世人の参考とせん。ここに賢者ありて愚者を欺きたりとして考へ見よ。賢者は愚者を欺きて己の智慧のすぐれたるを誇りとなすならん。されど又智慧ある第三者より是を見る時人を欺くは不善なり。然るに賢者はその不善を敢てして己が智慧を誇るは彼不善者なるによってなり。欺かれたる愚者は素直にして善人なるが故に信じたるなれば愚者は善人にして賢者は悪人なり。されば悪人の賢者に交はらんよりは、寧ろ愚者の善人に交はらんとの考へを起すならん。世人は此理に着眼して愚者となりて善人になるを好むか。賢者となりて悪人とつまはじきさるるを考慮し見ば、自づと名僧の語りし欺かるるとも信ぜよとの言葉の尊きを知るならん。賢者は智慧に誇りて不善を企つること多し。愚者は却て不善を考へず。故に神に対して素直なるによって神の愛は彼が頭にそそがるることも亦考へざるべからず。欣情が慈音に語りたる死刑囚の言葉に「賢者となりて世を益せんよりは愚者となりて神に仕へよ。然すれば世は却て益せらるべし」と云ひしと語り居りしを我は聞きていたく感じたり。生死を超越したる真の人にしてわき出づる肺腑をつきたる言葉なりと。世人はこの言葉を深く考へて己が修養の道を求め、信の力を一層強くせんことを望むものなり。疑ふが故に信は得らる。されど疑はざる底の信を得るにあらざれば真の力とはならざるなり。欺かるるとも信ずる底の信仰を持つならばそは愚者に似て賢者なるべし。神は人を欺き世を欺くものにあらざればすべては信なり。すべては真なり。何ぞ疑ふ余地あらん。疑いは人にのみ多し。故に疑ひを捨てて信を求よ。信じて疑はざる底の信ならでは力は伴ふものにあらず。疑ひの念強ければその念は悪念妄念となりて消滅す。所謂根を下して幹を枯らすと同様の果となるなり。信ずる根を栄えしめ信ずる念を強くするにあらざれば力は薄弱となる。

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