覚者慈音1460  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1460
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    

                2019.9.29
第二十六    信力について


 仮に神仏に帰依なし居る人に対して、その人の信仰なし居る神仏の名を認めたる一枚の紙を彼に与ふれば彼は決して是を足下にするものにあらず。高き所にあげて拝するは心理なるべし。然する事によつてその紙に認めたる名の力が彼の心中に喰ひ入りて、彼は事ある毎にその紙を拝して己が心の救ひともなすによって、紙の力はなくとも彼の悩みは救はるるは、是その認めたる名の徳によつてなるべし。所謂信ずるものの名の下に己は救はれつつあるは是信力の徳なり。斯く考ふればあながち護符も空しきものにはあらざるべし。是等の類のまじないは力なきが如く又あるが如き一種の不可思議信力と見て差支なからん。所謂暗示信仰或は錯覚信仰と見て差支なかるべし。所謂その信仰者に対しての働きにすぎず。もし是を他の信仰者ならざる人に与ふれば何等の価値もなきに終ると知るべし。然らば力あるものとは如何なるを云ふかについて語らん。是には現在の学理にては到底認知しあたはざる理論なれば、世人には容易に把握する事を得ずとは思へどいささか語りをくべし。
 例へばここに一人の名工ありて其名工が一心不乱に己の生命をかけて刻みたる一個の偶像ありとせんか。その偶像には彼が生命も魂も打こまれて作りあげたるものならば、その偶像のはたらきは自然に彼が身命を受け入れて一種のはたらきをなす如き例話は世に数々流布せられ居るならん。はたして斯る事のあり得べきかを観察し見るべし。世人の中には或は信じ或は疑ふもあらん。是を我等に云はしむればその作りあげられたるものに対しては正しく力あるにあらずして、其もの止まりたる作者の信力のはたらきが現はれて或程度のはたらきをなすことは、決して疑ひの余地はあらざるなり。されどその信力は永久不変にあらずして一定の時間に至って消滅する事は是又疑ふの余地もなきなり。此理は貴尊方が仰せられたる気光素のはたらきによる事も考へあはせばうなづき知ることを得るならん。斯くの如くまじなひに於ても二種あることを知りて信の力を養ふ参考とせよ。

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