覚者慈音1459  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1459
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述                                                    2019.9.28
第二十六    信力について


 信力とは文字の如く信ずる力の働きを云ふなり。信力と縁の力とは世人の考ふる処にては、全く無関係のものと思ふならん。されど決して無関係にはあらざるなり。縁網広大無辺なることは今迄語りし如くにして信力等はその縁網の中に含有せられたる一種のはたらきにすぎず。即ち信力念力は理論にして法力通力はその理論を証明する力にすぎざるなり。例へば是を医学上にて説明するならば信力念力は医術の学理にして、法力通力は医術の実際に用ゆると同様の関係と考ふれば可なり。信力については種々様々あれど是を大別すれば見聞信力と自覚信力の二種に区分する事を得るなり。とにかく信ずる力の強き事は論を要せず。さりながら道理を辨へて自覚なしたる信力にあらざれば正しき力は得られざるなり。見聞のみによって信じたる力は一時的にして永久ならざるが故にややもすれば力の消滅する恐れあるなり。世人の中には素直なる心の人は他より教へられて其を素直に受け入れてそのものの道理を辨へず信ずる人多し。かかる信力は一時的にして消滅し或は徹底せざる事多し。何となれば見聞信仰の中には理に合ふものと、合はざるものとの二種あるによってなり。されど見聞したる事柄に対してその理非曲直を明るくして得たる自覚信仰ならば決して動じ動ぜらるるものにあらねば永久不変の力となるなり。故に何事に対しても其ものの理非曲直を鑑別してのち信を置くにあらざれば常に空しき信仰者となる憂あれば、よくよく智能をはたらかせて後に把握し得たる信ならでは正しき力は発揮するものにあらずと知るべし。又信力の現はれには事実より現はるると他を信じて現はるるとの二種あり。
 例へば昔より行はれ来りたる様々のまじない等に於てもその現はれを見ることを得るなり。神社仏閣より発行さるる護符と称するものに於ても是等の現はれを見る事を得るなり。御守りとか、或はおふだ等には信の力こもりたると、然らざるとの二種ある如く、一つは信力法力のあるに引きかへ、一方には何等の価値もなく唯信ずるものの心に対していささかのはたらきをなす等の事柄に対して、世人は考へし事ありや。一枚の紙に対してその力のこもり居る如きは現在の学問にて是を解釈する事は至難なるべし。故に是等に対して世人は迷信なりとして省みざるは多からん。又是を精神科学の方面より観察して其は一種の暗示なれば、其によって或精神上の悩みは救はるる事もあらんと解釈する人もあり。今是等に対して少しく語る事とせん。

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