覚者慈音1458  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1458
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述                   2019.9.28
第二十五    縁の力について


 例へば金銀に縁なしとて空しく諦むるは是縁の接続法を知らざる故なり。先にも述べし如く無縁のものはあらざるが故に、無縁と思ふことも法力を以てせば必ずや有縁と変化して、是に和するは当然なり。我等に云端群れば運命開拓論は法によって進みなば如何にとも変ぜしむることを得るなり。されど世人は使命と運命を混同して考ふるが故に、すべては天命なりとして諦らめ居るにすぎざるなり。天より授りたる使命は如何に法を用ゆるとも是は変化するものにあらず。縁と使命とは相似たる如き関係を有すれども決して一様にあらず。先に語りし水に溺れんとせしものを助けんとして共に死したる如きは、世人の眼には唯運命なりとか、或は天の使命なりとかに帰せしめて、其にてその行跡を考へず放棄するはあやまちなり。遊泳を知らずして水に入り彼我共に死したるは是結果をもたらしたるにて、其にて縁は完全にはたされたる事に思ひ致すともその後の力は如何に変化するかを世人は知らざるべし。是等は後に追々語るとして今は縁の力について説明を進むべし。 縁は波長なるが故に此波長を適所適宜に塩梅すれば忽ち協和して共に大なるはたらきをなす。縁には時間空間距離のあらざるが故に用法は如何にとも変ぜしむることを得るなり。例へば百八十の波長のものに九十の波長を以てせば是は正しく協和すれど、もし一方に百八十一とか或は九十一とかの数とならば其は一の差のみ協和せざるが故に或時は輪し或時は剋す。故に一方の一をとりさる法を用いなば共に和して剋する事はあらざる道理の如し。もし其が百八十の使命を有する人にして、一方が九十一の使命の人ならば如何なる法を用ゆるともその一しーは排除する事は困難となるの関係あるによって使命と縁との相違も亦斯くの如しと考ふれば可なり。天の使命は如何に法力を用ゆるとも是は排除することを得ず。
 さりながら縁の力ならばその一は自由にとりさる事を得ると知りて学すべし。世の中の人は縁と使命の区別を知らざるが故にややもすれば生涯の行動を誤つこと多し。故に是が使命か或は縁かをよくよく、観察して用ゆるにあらざれば法力も空しくなりて終らん。



  大凡人間に頑なる人己その頑なる心をあらためんとはせず是は天命なりと思ひて世を渡るは多し。人の性は善なり。清らかなり。頑と云へる言葉は是汚れに他ならず。故にこの汚れは排除することを得るなり。
 総じて種々様々の悪念が聖霊を汚す塵埃に等しければ是を洗ひきよむる箏によって、本然にかへることをよくよく考慮して、悪行悉くは自己に有する個性にあらずと考ふる事肝要なり。然せざれば運命開拓は思ひもよらざるべし。縁の力の広くして大なることはここに蝶々する迄もなけれど、世人には縁と云へばその範囲狭隘なるものとして取り扱ひ居るを我等は知るによってかくは論旨を進めたるなり。
 縁網にはその力より四大力を産み出し居る事を世人は思ひもよらざるべし。四大力とは何か。即ち信力念力法力通力の四つを云ふなり。此四大力については此次にいとなむこだま会に於て語らんと思ひ居れど、此書により順を追ふて詳細を説明して是をながく記録に止めんと欲す。

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