覚者慈音1457  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1457
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.28
第二十五    縁の力について 


 世には溺るるものを救はんとし己遊泳の力なきをも顧みず、水に飛び入りて共に溺死するものすらあるならん。是縁の力の一方的にはたらきし結果に他ならず。我身を顧みず他を救はんとの心は却て身を亡ぼす結果となりたるは、因果関係より是を推理し見れば如何なる理論の生ずるかを考へ見よ。
 すべて一方にはたらかば一方に偏して結果も亦一方的となるは因果の法則によってなり。是絶対にあらざる故なり。世人は此理を知るや。もし世人にして是を考ふるならば救はんとの心のみにて己の力を知らず、水に入るは是無分別無法の人にて常識より判別すれば粗暴の振舞なるが故に、却て溺るるものをも死に至らしめ、自らも亦死の道に入る如きあやまちを犯すに至りたるは、是情(なさけ)にあらずして無情(むなさけ)の人に他ならずと考ふるならん。もし是を宗教者に云はしむるならば彼は如何なる答へをなすや。曰く、「彼等は前世の因縁によりてかくははてたり」と云ふならん。因果の道理をかく簡単に説明して其にて足ると思ふや。我等は然とは思はざるなり。もし宗教者の云ふ如く前世の因縁が現在に於てかかる結果となりたりとして是にて尽るものならば、世の中のすべては至極単純なるものなれど、我等はかく簡単に片附けらるるものにあらざるべしと考ふるなり。
 縁とは波長の網にして小さくは彼我をつなぐ紐の如く大きくはすべてにひろがる網の如し。故にその接続関係に於ても従って種々様々の姿となり又ははたらきの力にも強弱あるは即ち縁の特性なりと知らば可なり。世の中には金銀財宝に縁ある人、或は宗教に或は学問に或は工芸に等々縁によって結ばれ、又その力の程度もすべて一様ならず。されど仔細にこれを検討すれば無縁のものは決してあらざるなり。よく聞く処なるが我等は金に縁なしとか或は彼とはなしとか云へど、其は縁なきにあらずして力の強弱に基因するのみ。無縁にはあらざる道理ある事を認知しをくべし。縁には相性相剋あれど是等はすべて波長の関係に他ならず。例へば夫婦となり居り或は親子となり居りて、その中睦じからず常に反目なし居ることを見ば、世人はこれを無縁と思ふや。又有縁と感ずるか。所謂縁あればこそ結合なしたるに、相剋して反目するは是何故かと疑問するならん。波長にはかかる奇異の現はれを見することあり。是を相克縁と称す。剋しあふも縁なり。所謂圧力性因縁と云ふなり。然らば是を相性縁に変化せしむることを得るや否やについて考察し見ば如何なる結果をもたらすや。相剋変じて相性に帰せしむる事は是不可能にあらざるなり。唯その用法を知らずしてそのまま放棄なしをかば一生は相剋に終る。是にはいささかの法力を加ふれば忽ち相性となりて生涯を全うする事を得るなり。世人は運命なりとして法を用いず、いたづらに世をすごす人は多し。  

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