覚者慈音1456  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1456
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.28
第二十五    縁の力について  


 縁の力を語るに先だち先づ知りをくべき事は他力と自力の区別を明らかに知りをくの必要あらん。即ち他力と云ひ又自力と云ふは相対の言葉なり。例へば穴に落ちて苦しむとき上より下されたる紐によって救はるる場合是は他力によってなりと考ふれど、下されたる紐は他力にしてその紐を伝いて上りたるは自力なるべし。是を他に帰せしむべきか、或は自に帰せしむべきかは云はずもがな他力によつてなりとの結論に達するならん。もし下されたる紐を伝いて上ることあたはざる場合は何かの方法によって更に救はるる場合の他力もあるならん。同じ他力に於てもかく異りたる場合のある事に留意せざるべからず。自力於ても亦同様の関係もあるならん。さりながら力と云ふ点に於て是を観察するとき自他共に力によつて救ひ救はるる関係となるならばすべては力に帰せしむる事を得るならん。
 自力と云ひ他力と云ふも凡ては縁なるべし。もし縁のはたらきなかりせば救ひ救はるるものにあらず。縁のはたらき是力なるべし。
 我、下界に於て修行しありし頃、或ところに於て不思議なる問答をなし居るを目撃したり。其は他ならず。一人の男、川に落ちて溺れんとなしつつありしに、ここに通りかかりたる一人の男あるを、溺れんとなせしもの是を見つけて救いを求しに、彼曰く、「汝を救いやらば何の償いをなすや」と。答へて曰く「拾金をあたへん」。是を聞きて彼は「二拾金をあたへよ。さらば救いやらん」と。溺るるもの曰く「二拾金は多し。拾五金にて救へよ」と。彼は是をききて「二拾金ならでは救ふこと難し」とて何処かへ立ち去りたり。我、是を見るに忍びず、彼を救いやりたることありし。世には人情の異なるとは云へ実に不思議なるものよと感心に堪えざりし事ありき。世人は是等の話を聞きて奇異の感に打たるるならん。世人の世界には是に類することきはめて多かるべし。
 大凡世人の世界に学を好むもの多からん。学とは道理を明らむる教へなるべし。学者にして道理を明らめずばそは学者にあらず。多くの事を知り得たる辞引に等し。世の中の道理をきはめんとして学問を広くするは人のつとめならん。然るに多くの事を知り得て道理を知らず。道理を知らざるが故に悟るを得ざるなり。彼の水に溺れんとなすもの拾金はおろか二拾金三十金なりとも是を与ㇸて、生命を救はれんとなすは誰しも感ずるところならん。又人命を価値によって救はんとたくらむ者の心理は那辺にあるかにすら思ひ至るものあらざるべし。是を我等に云はしむれば又一種の理窟ありての事なるべし。是等に関しては後に因果の法則の参考となるべき例話なれば先づ語りをくに止めて、さて本論にかへるべし。縁の力にも強弱あり。溺れんとなせしものを価値によりて救はんともせず立ち去りしは、是縁の力弱はきに比し、我が救ひしは縁の力強きによると見て縁の力の強弱は推して知ることを得るならん。 

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