覚者慈音1453  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1453
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                                 2019.9.26
第二十三    有縁の区別


 一天雲もなき日空吹く風は何処に出でて何処に去るかを肉眼にて見ることを得るや。是に対して機械か或は何ものか実在化せるものを高くあぐれば風の方向は判明するならんも、然らざる時は肉眼にては風のありやなきやすら見きはむること至難なるべし。故に縁と云ふは一天くもりなきに空吹く風の如しと考ふるも亦差支なからん。縁は偶然に現はるる如く思はるれど決して然らず。何か根ありての事にあらねば来るものにはあらざるなり。世人は縁は異なもの不思議なるものとのみ考ふるは中途因果の考へより生ずる心なるべし。先に貴尊が語られし幾度も情死なしたる人について今よりくはしく縁と因果の理を詳らかに語らんとす。故に此ところ迄の論旨を先づ予備智識として知りをく必要あるにより熟読翫味してをかれたし。
 さて高貴の家に生れたる男子と卑賎の家に生れたる女子とが身分の相違より夫婦となる事あたはずして遂に情死をなしたり。然るに天界より追はれて又も下界に再生し以前の男子は女子に生れ、女子は男子に生れかはりて再び添ひ遂ぐるあたはずして又も情死し三度四度と重なり、はては獣類に転落して遂に夫婦となりたりと云ふ伝説についてなるが、今より是等について語らんに其説明の方法を音楽上より観察すれば理解は容易なるべし。
 即ち高貴の男子を清音一と見なし卑賎の女子を濁音八として考ふれば知らるる如く一と八は相互に協和なす音程なれど、一方は清音にして一方は濁音なるためその協和が従って純正ならず。ここに演奏する者の耳は此音程を喜ばずして用いず。故に此二音は空しく消滅したるなり。されどその音は清濁にも不拘一八の関係はつながりありて断えやらず、是を清浄化せしめんが為に再び楽器にうつされたると同様と知るべし。然して一八より清浄化せしめんがために再び現はれしは八と三の関係となりて又も現はれたるなり。故に八と三即ち呂律の関係なるにより前世の男子は律に女子は呂に変じて現はれたれど、此音程にも何れかの一方に純ならざるところありしために再び演奏者の好まざる処より捨てられて三度目は三と十の関係となり、四度目は十と五の関係となり、五度目は五と十二の関係にて遂に律の階より転落して獣類界なる処に生れ遂に動物夫婦となるに至りたることは、音楽上より推知して考ふれば世人も此理は察することを得るならん。空網縁については三対四律の法則より是を観察すれば容易にうなずくところあるならんも是は後に語る事として此例話の二者について今少し語るの要あり。そは他ならず。

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