覚者慈音1452  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1452
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.25
第二十三    有縁の区別


 先にも述べたる如く小我を捨てて大我を得ばここにはじめて自他の区もなく彼我の区もなし。されば此講の如き有縁無縁の区別も従ってあらざることも亦うなづかるる処なるべし。是は大我と云ふ大なる悟りを得たる後の事にして彼我の区別を離れざる以上有縁無縁の現はるるは是非もなき事なり。有縁と云ひ無縁と云ふも帰するところは自他の区別より来る現象にして、自他或は彼我と云ふ観念の離れざる以上有縁無縁の区別は従って排除することを得ざるも亦当然なるべし。仏教に於て「縁なき衆生は度し難し」と云へる言葉あり。是は仏教に対して来るものを有縁とし、然らざるものを無縁と云ふにて謂はば自立したる宗教に対する衆生との関係を説きたるにすぎず。所謂仏縁の有無を云ふなり。
 総じて縁と云ふは音楽にて協和すると協和せざるとの如き関係にて和すれば縁はつながれ、然らずば縁ははなる。此縁と云ふ言葉の真意は那辺にありやを先づ考ふるの要あらん。「つまづく石も縁のはし」と云ふを聞きても縁とは偶然の出来事を指すか。兎に角二者一体に結合するを縁として取り扱ふべきか。我等に云はしむればすべての空網(くうもう)引力を指すと見て差支なからんかと思ふなり。さりながら是は一種の符号にして様々に説明なし居る学者もあるによって是は世人の想像に任することとして説明を続くべし。
縁とはものの端を指すなりと云へる人もあり、又物と物との組み合はせらるるを縁と説くもあるなり。何れにもせよ縁とは自他或は彼我の関係を云ふならん。ここに有縁と無縁の関係を語るに先だち先づ注意すべきことは、天と地とは有縁か無縁かについてすらその有縁無縁の区別に迷はさるること多し。一体の如く思はれて是を区分することを得るならばその縁はつながりあるか、或は分離しあるかに至って迷ふ事はあらざるか。天の空間地の実体一つかと見れば二つに別れ、二つかと思へば即ち一なり。是有縁か無縁かに迷はさるることを考慮し見よ。世人はかかるわかりきりたることを何故語るやと不審する人多からん。我等がかくもくだくだしく述ぶるにはここに大なるもののかくれ居ることを知らしめんがためなり。

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