覚者慈音1450  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1450
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.25
第二十二    我とはなにか


 世人は我ありて我を知らざるは多かるべし。世人の思ふ我とは何か。己自らが持てる姿は我なりと思はばそは誤りなるべし。眼には眼と云ふ名称あり。鼻口耳心身悉く名称を有す。然りとせばその持主は悉く名称の所有するものに他ならず。即ち眼は眼のもの耳は耳のもの鼻口心肉体はすべて其々のものの所有にして我と云ふものの存在はあらざるべし。然るに是を我耳我鼻我口として考ふる時はすべては我ものと誤解なし居るならん。是を汝が姿の小さくして狭き範囲に考ふる故に肉体も心もすべて我ものと思ふならん。今少し範囲を広めて考へ見よ。汝の住める家は我家、汝の住める村は我村、汝の住める界は、我世界を拡大して考ふれば悉くが我となる道理あらん。然りとせば汝の住める世界を汝より見る時は我世界となる。此理より推考せば他人も我なり。自他共に我となる理も成立するならん。かく広き範囲にわたって考察せば我と云ふものの何処にありや。世人は我ありて我を知らざるなり。
 大凡此の世に生をうけたるもの皆其々異なる立場に置れありてその悉くが分に応じて働く。然らば分度は我なるか。人々すべて姓名を有す。されどそは汝等の世界にのみ限られて上界にはかかる姓名の必要はあらざるなり。故に上界の人々には姓名と云ふものはあらざるなり。我ありて我を知らず。唯己が持てる姿のみを我として考ふるが故に範囲はせまくなりて限度なき宇宙と同化することあたはず。真の我を知るに至つてはじめて大なる眼は開らかれて心は広くなりて軈ては真の我を知るに至る。汝の世界は汝にとりて我世界なるべし。然りとせば汝の世界に有するすべては汝にとりて我ものならずや。かく考へ及ぶ時、我とは即ち空なり。唯言葉の意味を知らしめんが為の名称にて我は他なり。他は我なりとして修養の道を開かばここに自我と云ふ範囲のせまきものを排除して大なる我とならん。我とは神より授けられたる力ならずや。神より授けられたるはたらきならずや。神より受けたる使命ならずや。神より得たる光ならずや。神より得たる輝きならずや。是を我としてすべてを考究すれば自づと我の力は広き範囲にわたって拡大強化せられ引いては世を救ふも我なり。他にあらずとの道理も自づと認識する事を得ん。彼と思ふも迷ひなり。我と思ふも亦迷ひなるべし。即ち彼も我なり。彼我は一体なるべし。此理より推して考ふればすべては我ものとなる。隣家の不幸は即ち汝の不幸なるべし。一国の不幸は又汝の不幸なるべし。世人は此理を知るや。世人にしてこの理を知らずんば唯範囲のせまき事のみ考へてここに彼我の区を分ち為に我は我、彼は彼と個々別々に考ふるが故に愛の力は範囲せまくして通ぜず。もし彼我の区別なければすべては我なりとの見地より、彼の悩みも我に帰するとの理より思ひ及ぶ時、是が不幸の悩みあらば躊躇せずその悩みを征服する慈悲心強くなりて、彼を救ふ愛の力は増大すること疑ひなからん。汝等の思ひはせまし。広く考へてすべてを我と思ひなば是を等閑に放棄して顧みざることを敢てなすものにはあらざるべし。神は神と云ふ我の力をすべてに通じてその悉く全宇宙を我として治め給ふに依て慈悲はその悉くに通ず。

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