覚者慈音1449  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1449
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.25
第二十一    身心一体の信仰について


 身心一体の信仰の中には中道を行くものもあり。此中道を行くと云ふは時にふれては精神信仰となり、又或時は肉体信仰となる如き底のものを云ふなり。此種の信仰は精神ともつかず又肉体ともつかざるが故に一体化せざる信仰なれば結果に於ても亦正しからず。所謂是を不安信仰と名づけ居るなり。
 総じて世人の中には此種の信仰者少なからず。例へば己が心に傷く時はその痛みを神仏に依て救はれんと計り、肉体は唯平常の如くなし居り、又肉体傷かば精神は何等異なる処なく唯肉体のみ救はせよと肉体的に祈りをなす如き信仰をなし居る人すくなからず。所謂肉体は肉体に精神は精神と個々別々の祈りをなす如き事を続け居るは一般人の信仰者に多し。即ち念仏なしながら人を欺く底の信仰は是無意味の信仰にて何等徹底するものにあらず。所謂糠念仏空念仏にすぎざるが故に是等は因果の法則を知らざる信仰なれば祈る甲斐なし。是等の人にて神仏に見ゆる事は難からん。身心一体の信仰とは即ち文字の如く身と心と一体となりて念ずるにあらざれば真の一体とはならざるなり。身心一体となりてはじめて神仏に通ず。世人は肉体を我ものと思い我心も我と思ふが故にここに二つに分れたる生活を営み居るなり。心と身と一体になりてはじめて我と云ふもの、わがものと思ふ心が自然に失せて是はみな身心共に神の恵にて造られたるものなれば我に架せられし、否我に授けられし宝にて粗末になしては神命にそむく。我ものにて我ものにあらざることを自覚するにあらざれば身心一体の信仰は得られざるなり。世人は我ものと思ふが故に勝手気儘の行動を敢てす。我ものと思ふものは一としてあらざる事を知るに至ってはじめて真の明らめを起し、ここにはじめて神仏の尊さを知るに至つて信仰の度はいよいよ加はり身心一体のつとめをなほざりにする事をせざるに至らん。斯くなりてこそはじめて人の人たるべき事を悟り又人として生れし己を知るに至っての後ならでは進むべき道は明らかに知ることを得。我ものと思ふが故に我と云ふ自尊心が強く根を下し枝葉を繁らするが故に、大切なる人根を傷くるに至るはこれ因果の法則なるが故に此理をよくよく悟らざるべからず。我ものと思ふが故に我と云ふ我意を強くす。我ものにあらずとの理を悟りてはじめて我といふものの姿が消滅すれど、我ものと思ふ間は決して我意ははなれざるべし。すべては神のものなり。軈ては神に返さざるべからずと考ふる時、此身心のあづかり主は我にり。されば是を立派に稔らするも亦我なり。あやまちて枯死せしむるも我なりと考ふる時、我の使命は重大なりとの結論に到達するならん。されば我は如何にすべきか。我は那辺に存在するかを知らざるべからず。我とは何かについて深く考慮せざるべからず。

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