覚者慈音1448  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1448
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.24
第二十一    身心一体の信仰について


 ここに考ふべき事は世人の思ふ善悪邪正の区別と天命のそれとは趣きを異にす。世人が考ふる善悪の区別はややもすればあやまつこと多し。生るれば喜び死するを悲しむは一般のならはしなるべし。さりながら是を又逆に考ふる人もあり。生るれば悲しみ死すれば喜ぶ。何れを正しとし何れを正しからざるとの論説は相方ともかく一理ある論旨をなすならん。一方は悲しみ一方は喜びとせば其は唯水かけ論となりて何れにも善悪の区を定むる事難かるべし。生るれば喜び死すれば悲しむは是か非かに迷ひ迷はさるるならん。かかる事に於てすら善悪の区は明らかならざるべし。因果の法則より是を論じ見ば、生れて悲しみ死して喜ぶと云ふも因果にあらず。又生れて喜び死して悲しむも亦因果にあらず。かく語らば因果の真の道理は明らかならずと思ふならん。喜びを先にし悲しみを後にすと或は悲しみを先になして喜びを後にすとの相違にて是因果にあらず。喜びの種子は喜びとなり悲しみの種子は悲しみとなるにあらざれば因果の法は成立せざるべし。汝等の考ふる善悪は大抵この部類に属す。生るれば死す。是因果の法則より生でたるにて悲しみにもあらず、又喜びともならざる道理なり。世人の善悪邪正の多くは世人によって作られたるもの多し。神はかかるあやまりたる善悪邪正は造り給はざるなり。春種子を蒔きて秋に稔らす。是即ち因果なり。蒔きし種子の稔らざるは種子の悪き故なり。よき種子を蒔きてよき実を結ばするにあらざれば正にあらず。種子悪ければ結実も悪し。此理をよくよく翫味し見るべし。人の生れしは種子にて死すれば稔りとなりたる故なり。此理より考ふれば生るる喜びは死する喜びなるべし。生れて喜び死して悲しむは蒔きし種子の稔らざる故なるべし。是を喜び悲しむは造り主の心正しからざるが故なり。己作りて実を結ばせざるは造り主の怠慢より生じたる故にこのあやまちに対して悲しむ結果となる。是正か不正かをよくよく思惟し見るべし。
 因果の理明らかに知り居るならば生きるを喜び死するも亦喜びとならざるべからず。生きるを悲しみ死するを喜ぶも亦因果の理に合はざる故なり。生きるを悲しむは悪き種子を蒔きたる故なり。然るを死して喜ぶは造り主の任務を完全にはたしたりと思ふが故なるべし。はたして然あるか。もし然りとせば此人は悪き種子を蒔きてよき実を結ばせたる勤勉の人なれば是は正の部に属すと考ふるも亦一理あるならん。我等が見る処にては世人の多くは唯然あるかとの考へに他ならずと思ふなり。是は空言(そらごと)の考へによって習慣的に定められたる約束に他ならずと思ふが故なり。
 従来貴尊方が語られし如く世人の喜怒哀楽悉くが皆迷ひなりと仰せられし理も是に存す。世人はよくよく考慮してかかる迷ひを速にすてん事を我は祈るものなり。

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