覚者慈音1447  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1447
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.23
第二十一    身心一体の信仰について


 身心一体の信仰は心を磨き身を修むるにあらざれば、正しき信仰とは云はれざるなり。身を修むるは心を修め心を磨くは身を守るの法に合ふに依てなり。心のみ正しく清らかになすとも肉体に及ばざればそは内面の信仰にして、表面まで輝き出でたるにあらざるが故にかかる処にも注意せざるべからず。心の輝きが外部に露出して外部も共に清らかとなり、光彩を放つに至つてはじめて信仰の成就したる姿となるなり。世人の多くは肉体を清らかにして心は然らず。是逆信仰の結果に外ならず。外部より内部に徹せしむるは困難にして内部より外部に及ぶは至難にあらず。此理も世人には解しがたからん。例へば一個の果物が外部より見て何等異状なきに皮をむけば内部の腐蝕し居る事に気づく事しばしばあるならん。又外皮が傷き居りて内部に異状なき事もあるならん。内部に異状なくして自然に稔りたる果物は外皮にまで光沢をそなへ居るによって、その果物の味のすぐれたる事も亦知らるるならん。精神信仰肉体信仰のみにては何れか一方は汚れを生ず。されど身心一如の信仰とならば表面内部共に完全に稔りてその結果は正しくなることは異論の余地なかるべし。こだま会に於て(昭和二十三年九月十八日)我、円海にて語りし如く動物性にて進むべきか、或は人間性にて進むべきかの事柄をいささか語りをきたるが、一方的の修養修行は結果に於ても亦一方的に変ず。動物根を育てて稔りも動物根に終らしむるか或は人根を育てて人根の結果を得るかは世人の望みにまかすべし。因果の道理はかくの如く動物根を動物結果に終らすは易く、又人根を人根に終らすも易かるべし。されど人根を育てて神果に終らすは至難なるべし。(但しここに神果と説きたるは真の人間を指すにて神を指したるにあらざる事を附言しおく)
 人死して神になし難き故至難にあらずと説きたるにもあらず。神果即ち完全なる人間、仏教にては是を菩薩とか仏とか称へ居る境地を云ふなり。真の人とならば是を菩薩とか或は仏とか称する位置まで進まずば真の人にあらず。姿のみ人間にては因果の法則に合ふと雖も其は一方的の方法にて、所謂野育ちに育てたる草木の如きなるに依てなり。人生れて唯空しく光陰を費消して終らば其にてよしと考ふるならば、そのままにて修行せずとも修養せずとも、生るれば死する因果の法則によつて空しき人間にて終る。然りとせば是等の人は天の使命をおろそかにしたる故に、来世は如何になるかを考ふれば、因果論より推理せば自づと知ることを得るならん。依て人と生れし以上修養修行をなほざりにせず、日々の光陰を空しくせずして人間を菩薩の境地に迄稔らせずばその後の悩みは多かるべし。

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