覚者慈音1442  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1442
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.23
第十九  肉体信仰について


 されば肉体信仰とは如何なる底のものを指すかと云ふにもとより是等のものも見聞信仰より出でたるものとは云へ、是には又一種の異なる関係を有す。総じて信仰に入るには見聞より入るにあらざれば得らるるものにあらねど、先に述べたるとは又その趣きを異にす。肉体信仰の人は神仏ありとのみ聞かされてその理論の如何なるかを研究なすことをせず唯神仏を信ずれば、己に何かの利益あらんとの慾心より入りたる信仰にて結局は利慾のための信仰にすぎず。されば朝には神を祈り仏を祀るに於てすら供物の軽重に重点をおき是によつて倍加せる福徳を得ん事を願ふにすぎざる底の人なり。香華燈燭茶菓珍種を供へて家内安全の福徳円満或は病魔退散など願ふにすぎずして、神仏の有無には更に心を止めず訳もなく祈禱をこらすにすぎざる人なり。是を肉体信仰と云ふ。さればその願いが成就するに至つて益々社前を大きく供物増大して、祈念をこらすにすぎざる実に浅墓なる信仰を云ふなり。是等の人ははじめ己虚弱にて薬石を用ふるもききめなく、他より此神を此仏を念ずれば病魔は忽ち消滅すと聞かされて試みに祀り拝みをなしたる時、偶然にも病魔退散して己健全になりたる喜びより進んで信仰に入りたる底の人に多し。又是を導く指導者は信者を広くして自らが利益を多からしめんが為に怪しき祈禱など行ひてその人々の弱点を捕へ、其に依て己の懐中をこやす不届者に迷はさるる事多きは古今を通じて断えやらず、是等は未来も持続する事あらん。されど文化が発達するに従ひてこの種のものも自然消滅の他なかるべし。一日も早くかかるものの消滅せんことを我等は望むものなり。
 此種の信者のうちにも種々様々異りたるありて一言に説くこと難きも是を根に返せばすべて利慾より出でたるは多し。稀には然らざるものも少なからず。其は無智者の人に多く見らるるにて識者にありてはすべて利慾を先になし居るを見る。故に是等の人を因果法則にて考ふる時、願望成就したる人は益々利慾を旨としてその方面にのみ信を厚うしあるによつて、精神的の苦悶は常に断えやらず、不安は常に彼の身に蔽いかぶさりて常にたゆる事なく此不安を除去せんとして日々神仏を祀り居れどその願望は果さるるものにあらず。彼等は物慾を思ふがままに授かる事に依てその後は己の地位を得んと計るは常人のならはしなり。故にややもすれば悪行に知らず々々々化せられて果は身心共に亡ぶる結果をもたらすに至ること、是又信仰の誤りより生ずることにて是非もなし。たとへ家富み栄ゆる如く見ゆれど家庭は混乱し家族融和せず、日々争ひを続くる等是精神信仰に欠けたる故に生ずる結果となるは因果の法則に依てなり。
 すべて一方的信仰ならば必らずや一方に欠陥を生ずるは当然にて是は因果の法則なれば是非もなきことなり。貴尊方の説かれたる説によらば此種の信仰は魂(こん)に属す。宗教者の多くが様々の法力を学び是に依て信者を多く集め、然して大なる神殿仏殿を建設なして己等其に依て腹をふとらす如きもみな魂(こん)の信仰より生じたるにて結果は次第に滅亡し社殿仏殿も影を没するに至る例は少なからず。是等に関して詳細語りたけれど紙数に限りあれば今は是迄に止めをかん。

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