覚者慈音1441  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1441
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.22
第十八  見聞信仰について


 又見聞信仰の内面的には表面には神なしと論じ神など信ずるは弱者にして何不自由なき健康者にありては神などの必要もなく、たとへ神ありとするも其は世間を治むる一種の方便にすぎずなど論じ居りて、内心には神のありはせぬかとの思ひを蓄へ居りて一目なき処にては神に祈り居る底の人を云ふなり。是等の人は表面には神なきが如く云ひふらせど内心安からず。神をおそれ居る人も多し。是を貴尊方の論説にて云ひ現はすならば外面的見聞信仰は心(しん)に属し、内面的見聞信仰は意に属する関係あるにより外面は陽にして、内面は陰となる。さればこれを因果論にて説明する時、外面信仰者はややもすれば肉体に危害を受くる事あるに引き換え、内面的のものには却て肉体安全に世をすごす人多し。何となれば外面信仰は空行く雲、流るる水の如くにて肉体に対して何等の影響なけれど、内面的には神を恐れあるによって却て己が肉体を守護する力あるに依て結果に於てかくも反対となる。然るに是を他より観望する時、信仰ある人は傷き信仰なき人を全うする如く思はるるによって、ここに神を信ずべきか信ぜざるべきかの両道に迷はさるる事多きも因果論より見る時決して不審するには及ばざるなり。神を知らず仏を知らずして唯無益の空念仏を称ふるともそは何等の力をうくるものにあらず。即ち文字の発音をならべたるにすぎざる故なり。又此見聞信仰の中には漂泊信仰とも見らるべきものあり。其は他にあらず、先祖代々より己に伝はりたる伝統的宗教をそのまま固守し居るにすぎざる人の姿なり。即ち此種の人を社前信仰仏壇信仰とも云ふべきにて己自らは神仏の有無など知らず。されど唯伝統的習慣性によって拝し居るにすぎざる底の人を漂泊信仰と云ふなり。是等は毒にも薬にもならざるにて信仰者の部類には入らざるなり。されどもし是等の人が何かの動機にて一度信仰に入らば却て正しき信仰を得る人も稀にあるなり。
 大凡見聞信仰の人の中には世の中を混乱せしむる如き悪行をなし居て最後に至つて飄然悔ひ改め、善行に立ちかへる人もあるは是内面信仰の人に多し。是に引きかへ世の中に善行をいとなみて最後にあしき結果に終る人は、即ち外面信仰者に多きを見る。因果の法則はかかるところに見らるる現象なれば世人は悪人の世を全うせしとて決して是を悪人として取り扱ふ如きは其相手の善悪の区を知らざる故に誤解すること多き故なりと知らば可ならん。此理より考ふる時、外面に属する心(しん)の信仰よりは寧ろ内面意の信仰に属する方却て結果に於てよき実を結ぶと云ふに至りては何れを択ぶやに迷はさるるならん。心(しん)の信仰か意の信仰かに分けて是を考察する時、外に美服を着飾りて世間を欺く人よりも、外に粗服を纏いて心に絹布をまとい居る人に勝利はありと見らるるならん。されば同じ見聞信仰のうちにすら斯る複雑微妙なる関係ある事をよくよく認識なして修養の資料とせば益する事も亦すくなからざるべし。

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