覚者慈音1440  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    滝裏信仰とは    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1440
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.22
第十八  見聞信仰について


 見聞信仰者の中にも種々様々の類あり。多くの宗教の書物を読み又多くの説をききて其を知るのみにて、自己は如何にも大悟者の如く装ひて世間を欺く底の信仰者はきはめて多し。この種の人は己の智慧を誇るのみにて己自らは何ものをも把握し居らぬ故に却て迷ひ迷はさるる事尠なからず。慈音なども始めはこの種の信仰者なりし。外を欺きて己自らは如何にも信仰者の如く外を装ひ内心安からざる日を送り居りしことを我等はよく知り居りしなり。慈音は種々様々の書を読み又参禅などして坐禅工夫などなし居りて得る処なく内心如何にかして何ものかを把握せんとあせり居りて、外には己如何にも神仏を知りたる如く世間をごまかし居りたることを我等はよく知り居たり。是内外一体化なし居らざる一方的の信仰が彼をしてなやまし居たる事多年に及びたるなり。その信仰を妨げしものは何なりしか。即ち自尊心或は優越観念の強き結果斯くもなやみを深くなしたるにて、帰する所は不具と云ふ罪悪がなせし一種のあやまてる念のわざわひなりし事は、是又世間の罪も彼の身に及ぼしたる原因に他ならず。所謂彼は己の不具を世間並みの人と同様ならしめんと考へ、その考へが彼の心を暗くしたる結果かかるあやまてる信仰を続け居たるも、其は正しき信仰の教へを認識するに至らざりし故なりし。此底の信仰者は世には非常に多し。又見聞信仰に依て得たる事柄を応用して世を欺き己の利益を計らんと世を偽はる偽善者又宗教者は、表面には如何にも信仰者の如く装い内心には神をあなどり、神を偽はりて唯一時の利益のみ得んとたくらむ者も少なからず。現在この底の宗教者は非常に多くはびこりて神を資本金として暴利をむさぼる不心得者の多きは苦々しき事なり。かかる者の原因或は因縁結果等は如何になるべきか。推理せば明らかにその末路を知ることを得るならん。己の内心に神を宿さず、文獻に依て神を知る底の人にして神を論じ神を語るもそは空論にすぎず。されば斯る人の教へは千万言費すとも他に徹するものにあらず。真のさとりと云ふは即ち内心に徹したるにあらざれば得らるるものにあらず。文献に依て知りたるのみにては流るる滝の如く何処かへ行き、己の心に何の貯るところあらざるが故に我等同行者は滝裏信仰と名づけ居るなり。

×

非ログインユーザーとして返信する