覚者慈音1439  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1439
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.22
第十七  原因をたしかむるには因縁の理を知らざるべからず


信仰には下記の種類がある


見聞信仰には   外面的 (滝裏信仰)
         と内面的あり

肉体信仰


精神信仰には   自然信仰  胎教信仰
            神霊信仰
       
            迷信信仰
    
            正信信仰  見聞信仰の向上したもの



            身心信仰 
 



 この題名を説明するに当り、先づ世人が知りをくべき信仰の事柄を先に認知なしをくの要あり。依て此事より先に説明せんとす。前講に於て語りたる念仏なし居て危難に命をおとす等の如きあやまちあるも是信仰のあやまてる結果に他ならず。大凡信仰者には種々様々あれど是を大別して考ふる時はこれを四種に区分することを得。第一には見聞信仰のみに走り居る人、第二には肉体信仰にのみ囚はれて精神信仰に至らざる人、第三は精神信仰にのみ囚はれて肉体信仰を等閑になし居る人、第四は身心共に正しき信仰に入れる人の四種なり。
 先づ第一の見聞信仰より語るべし。見聞信仰には外面的と内面的の二種ありて、外面的信仰とは己自ら種々様々の書物を読みて其を咀嚼する力なくして唯外面のみ知り得て、真の信仰には入り居らざる人なり。是等の人は偽はり信仰者にて所謂己は如何にも信仰者なる如く外をいつはり、内心には何等信仰の力なく所謂世間を欺きいつはる信仰者を云ふなり。斯る信仰者を我等同行者間には滝裏信仰と称へ居るなり。所謂滝の裏は水分なくして汚れ多く外は滔々と流れ居る如き姿なれば斯く名づけ居るなり。世の中には此種の信者は多くして殆ど皆是なりと云ふも過言にはあらざるべし。又内面信仰とは面には現はさねど心の中に見聞より得たる行ひを外にもらさず、己のみ其に依てひそかに何ものをか探り求めんと計る信仰者なり。此種の信仰者には妬みそねみ怨みの念非常に強き人に多し。何れにもあれ見聞信仰者は専門的立場にある教導者にすら非常に多し。己書物とか先輩者の実験的行いを見聞して唯知り得たる事柄を心に貯へ居りて自らは真の信を得るに至らざる人なり。是を見聞信仰者と云ふなり。
第二肉体信仰にのみ囚はれて精神の信仰に欠けたる人とは如何なるものを指すかと云ふに、是等の類の人は主に利慾の為の信仰にして精神的に信仰なすにあらねば、利慾を得られずば他に方向を転ずるのみにて神を信じ仏をたのむと云ふも、利益を重んずるにて神仏を尊ぶにあらざる底の信仰を云ふなり。我に利益を与へ得ざる如き神仏ならばたのむに甲斐なしとて、利益得られずば忽ち信仰をすつる如き浅薄なる信仰にて此種の信仰者は無知識の人に多し。
第三は精神信仰にのみ囚はれて肉体的には無頓着なる信仰をなし居る人なり。斯る人は我は我、神は神と別個の考へにて神と我とを常に切りはなして個々別々の行ひをなし居る人なり。故に神の前にては手を合はせ社前を去らば人を欺く如き行ひを敢てする人にも多し。此種の類はいささか知能のすぐれたる学者智者に多きを見る。
 第四の身心共に信仰なし居る人のあるも是にも亦種々様々の相違あるなり。或時は肉体に或時は精神にと互に折にふれ事にふれてその信仰を其々に転換せしめて拝みをなし、或は信仰をなし居る人もすくなからず、又此中には肉体と精神との中間を行く信仰者もあるなり。身心一体となりて帰依する信仰者は稀にあるもその信仰者にも全きと全からざるとの人も亦多し。是等四種の信仰についてその一々をよく認識なし居らずば原因或は因縁の理をたしかむる事難し。依て是等に関して尚くはしく説明なすの必要あれば項をわけて語ることとせん。
 

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