覚者慈音1438  未知日記 第九巻  因果論 人身篇一  インショウ、ミキョウ貴尊講義

覚者慈音1438
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.21
第十六  原因なくんば結果なし


 汝等も清潔を望むならばその力を有する木像も清潔を好むならん。汝等食を求むるならば木像も食を求むるならん。汝等が捧げし食物は木像これを摂取せしか。然らざるべし。唯手向けしのみにてその食物の心を摂取せしとのみ考ふるならん。汝等の信仰はかくも我儘気儘の心にて拝し帰依し居るにすぎず。もし汝等が木像となりて人を救ひ世を救ふなりと思ひて木像の心をわが心にひき比べて考へ見しことはよもあるまじ。もし木像が汝等の如き肉体と同様ならばその木像の不平不満はあらざるかとの思いやりをなして、その木像と一心一体となる心にて信ぜずば否念ぜずば、己自らの心は清潔とはならざる事に気附かざるべからず。木像を塵埃汚物の裡に閉ぢこめて表面だけは如何に清浄に飾り居るも木像は唯苦笑するの他なかるべし。人間共と云ふものは如何にも我儘気儘のものかなと思ふのみならん。信仰とはかかる処にも汝等の信仰の誤りあることに早くめざめずばあるべからず。故にキリスト教は斯るあやまちより真の信仰を得ること難しと知り、宇宙の神は姿なく全智全能なるが故に偶像など拝するは愚のきはみなりとし、又仏教者に於ても木像に力なきことを知りて是を拝すとも甲斐なしと教へ、唯信仰の手引きとして拝するも可なりと教へ、これを小乗として伝へ居れど大乗には偶像崇拝は甲斐なしと説き居るも、是前述の如き道理あるによつてなるべし。かの泰岳が偶像を吹きとばして嗤ひしもみなこの理にすぎざることを深く考慮せざるべからず。偶像は信仰者の目標として方便にまつるにすぎず。されどその偶像にぬかづくものは今語りし如き木像と我と一体化して木像に思ひやりを持つ心にて拝するならばそは差支なし。
 余事はとにかく本論にかへるべし。因果の道理は中途因果と原因因果を更に結果因果の三種あることは前にも語りし如く、念仏三昧に世をすごし居て其が危難に遭遇して肉体を滅せしむるとも、其は中途因果に他ならず。是を因縁観より観察する時ここに又誤解すること多し。唯因縁として彼は悪因縁のものなれば前世に於て何か誤まてる行為がかくなる結果に及びしならんと宗教者は語り居れど、その因縁は如何ありてか如何なる原因にてかかる結果に及びしかをくはしく説明する人は少なし。中途因果には何かの因縁あるによってその結果が斯るあやまちを生ぜしめたりとして、是を等閑に附するならば悪因善果の転換は至難となる。悪因を善果せしむるには因縁の法則を知るにあらざれば中途因果の道理は明らかに知ること難し。依て因果の間に含まれある因縁の事柄に対して知りをく必要あらん。依て次の講にてその理を語らんとす。

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