覚者慈音1437  未知日記 第九巻  因果論  人身篇一  インショウ、ミキョウ貴尊講義

覚者慈音1437
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.21
第十六  原因なくんば結果なし


 ここに子を持てる親あり。家貧しければ世間の人の子の如く育つるあたはずと仮定してその因果の理を観察し見よ。朝夕あたふる食事すら思ふにまかせず、子は次第に細りて発育不良となりて親に対して食を求むること切ならばその親の心は如何あらん。もしその子が飢餓に瀕して命を失ふに至らば親の心は永久におさまるものにあらず。苦悶に苦悶を重ねて己も自殺するの余儀なきに至らん。是等は皆肉体の因果にして精神因果を明らめ居らざるが故に斯る悪結果に終るなり。是等親子の姿を見たる世人は何と批判するや。彼は前世に於て悪き行ひをなしたる故にかかる結果となりたるなり。是皆因果応報なるべしなど語りて彼等親子を罵るならん。因果応報と云ふ言葉は世人にありては悪しき方面にのみ用い居りて、正しき方向には余り用いざるは如何なる故かと我等は疑問す。又日々世間の為に善行を営み居るものが不時の災難にて命を失することなど聞きては、是又其人に対して彼は表面善行をなし居りて内面に悪き心を持ち居る故か、或は前世に於て余程悪き事をなしたる故ならんなど語り居るを耳にす。是等に関しては追々語るべけれど兎に角原因をたしかめずして結果を語るは世人のならはしにて是は大なる誤解なりと云ふことにのみ止めをくべし。
 世には念仏三昧に日を送り居る人が不時の災害にて命をおとす如きを、宗教者が是を己が宗旨に引き入れんとして他力宗を罵り自力の道に入れよとすすむる輩も多し。されど不時の災害にて命を失ふ如きは是中途因果の法則より考察すれば、明らかに知るの理あることを世人は承知しをくべし。是等念仏者が身心一体の念仏にあらざるが故にかかる危難に会ひて肉体を亡ぼしたるにすぎず。世人の信仰には斯る点に於ても誤ち多し。例へば何々の観音がよくきくとか称して日参夜参などなし居る人少なからず。世人は此観音と称するものの姿の木像の前にひれふして救はせ給へとか、福徳を与へしめよとか祈り居れど、その木像が鎮座なし居れる所は塵埃に充たされて木像は頭上より様々な汚物をあびて居ながら、世人の希望を叶へしむる力ありとせばここに何かの考へは浮ばざるや。祈願するものの日常生活はいねたければいね、起きたければ起き行きたければ物見遊山にも行く自由を有し居れど、その自由を有難しとも感ぜず己の欲望のみ考へて祈誓をこらす相手の木像にして、もし其が人間の如く肉体を有するものとして考へ見よ。塵埃の中にとぢこめられてかかる不自由の生活なし居るとして考へ見し事はありしか。斯く語らば汝等は云ふならん。彼は木像にて歩行も手のはたらきも自由ならねば其は余儀なしと云ふならん。然りとせばかくも不自由なるものにありて汝等を救ふべき力は那辺にありや。然るに汝等は是を尊敬して崇敬して崇拝なすは何故ぞと疑はざるを得ず。

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