覚者慈音1431 未知日記 第九巻 因果論 人身篇一 インショウ、ミキョウ貴尊講義
覚者慈音1431
未知日記 第九巻 因果論
第一の巻
人身篇一
インショウ、ミキョウ貴尊 講述 2019.9.19
第十五 原因ははたして知る事を得るや
総じて人類は物の理を知らんとして多くの事をたづね求めて却て本然の大意を獲得する事あたはず、その多くの事柄が却て迷ひを深くする資料にすぎざる事多し。無用の事を数々知り得たりとて本来の大理を感受するにあらざれば真の人生の道は迷ひの他なかるべし。多くの事柄を知り得たりとも其が無用のものならば学びたる数々は恰も塵埃に過ぎざるべし。多くの事柄を知り得て其によって本然の一大事を知り得る資料となさんが為の修養と思ひて却て余分の事柄を知り得て其によって本然の一大事を知り得る資料となさんが為の修養と思ひて却て余分の事柄を多く知る時は、恰も其は多量の肥料を施しすぎて却て必要の作物を枯死せしむるにすぎざるなり。一つの種子を蒔きてその種子の如何なるかをきはめ知りて其に相当する肥料を適宜に施し、他の不用なるものを排除して是を完全に育てんが為には、先づ種子の如何なるかをよくよくたしかむる必要あらん。人に於ても亦然り。十人十種と云ふ譬喩の言葉もある如く人々の個性悉く同じからず。さればその個々に有する個性を其々きはめてその個性のもつ特徴を発揮せしむるにあらざれば、全き結果は得られざることも亦明らかならん。斯く考へ及ぶ時、自己の持つ個性を確知する必要に迫らるるは是又理なるべし。是をたしかめんがためにいささか過去に逆上って己に架せられたる任務とは何なるかを知らんが為に是又過去を研究する必要もあらん。己の過去を知りてその本来の姿を見きはむる底の力あらば従ってその発育の経路に誤ちなかりせば結果は如何になるかの理も従って認識することを得んとの確信も生ずる理も亦うなずかるるところあるべし。過去を知らずとも唯現在の境遇を境遇として其によつて世を明るくせしめよと説きしも、実はそこに大なる意味含まれある事に留意せざるべからず。人の考へは総じて本来顛倒したる事柄を思惟してあやまちを引き起すこと多し。先に語りし瓜のつるに茄子を実らしめたりと見なして考へ見るべし。現在の茄子は過去の瓜なりしと云ふことを知る人はよもあるまじ。瓜を作りて其を茄子に化せしめたりとして、是をなし遂げたる人にのみその経路より是を観察するによってその理を知ることを得れども、是を知らざる人には瓜と茄子は別個のものとのみ観察するの他なかるべし。是は唯瓜のつるに茄子はならぬと云ふ言葉の譬喩にて不能と云ふにすぎざるならん。