覚者慈音1430  未知日記 第九巻  因果論  人身篇一   インショウ、ミキョウ貴尊講義

覚者慈音1430
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.18
 第十五  原因ははたして知る事を得るや


 原因を如何なる法にによって知ることを得るやと云ふ大問題なり。一年三百六十日是が終りて又新らしき春を迎ふ。さりながら去年の春とは相似て等しからず。音も亦然り。一より出でて順八逆六の法によって更に又一にかへる。されどはじめの一と二回目の一とは相似て等しからざる一となり居れり。然りとせば始めの一は如何かと云ふことを知るには、その始めの一にかへらしむる方法を知るにあらざれば原因は知ること難し。世人は去年の正月はかくありしが、今年の正月は再びめぐり来て去年との相違を知るは、去年を覚え居るによつて今年と比較してその相違を感ずるなれど、もし去年を忘れて記憶を喚び起す力あらざれば如何ありしかを知ることがたからん。是は人の心のはたらきなれど、是を自然の動きよりもしその自然の姿に心ありて去年と今年の比較をなす時、地球の運行は去年と今年と同一ならば去年の一月にはその位置その姿が動自然にてあるならば、去年の一月一日に雨ふらしたりとせば、今年の一月一日も亦雨ふる道理となれど、事実去年雨ふりても今年は雨ふらぬ好天気となり居る事多からん。又太陽と地球の緯度が去年と今年と同一にて、太陽の姿も地球の姿も同一の姿が具備し居るものならば気候温度に於ても同一なる筈なるに、去年は暖かりしが今年は寒しと云ふ区別もあるならん。さりながら何かそこに一脈相通ずる道理あるによって一月一日は再び廻り来りて、やや相似たる何ものかがそこに現出なし居る事は誰もが、いなむことあらざるべし。世は廻り移りて何億回或は何千億回かすぎて今日に至りたり。されど年々是同じからず。人の生活に於ても亦同様なるべし。何十億年以前の人類と今年の人類には非常なる相違あり。されど人と云ふには決して異なる事なし。汝等の祖先は何なりしかを知ることは世人の智慧にて是を知り得る法そなはりあるや。もしありとせば其は唯推測にすぎざるべし。確実なる原因を確かむるにはその人の現在より逆上ってその原因迄立ちかへらしむる力そなはららざれば真をきはむるは難からん。考古学者は種々苦心を重ねて様々の証拠品を探り求めて、原因に逆上り推理せんとあせれど容易に真をきはむる事は困難なるも、世人のよく知るところならん。世人は己の過去の原因を知りつつ其によつて何を求めんとし、何を得んと考ふるや。もしその法ありて知る事を得たりとも其によつて何を得んとし、且つ何を求めんとなすやに至つては是又迷ひの種子を得たるにすぎずして却て其を知り得て悩みを多くするにすぎざらん。斯く考ふればかかる愚なることを考へんよりは寧ろ現在に重点をおきて世を渡るにまさる事なしとの結論に達せん。知らずともよき事を知りて迷はんより否苦しまんより、その力を現在の生活に重点をおきて何か大なる発見をなして人類の幸福を計るに不如とは考へざるか。

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