覚者慈音133 未知日記講義第一二巻 大霊界  自己の肉体に有する大霊界とは  教主寛大講義   巻の弐     教主講義


未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO90
      
自己の肉体に有する大霊界とは何処ぞ   その2
                                                                          教主寛大 講述


 汝等衆人はよく口にするところをきけば、話をききても腹に這入らぬとか、頭に入らぬとか称へ居るにてはあらざるか。是等の事柄より推知せば、腹も天界頭も天界と云ふに対して迷ふことなかるべし。今汝は天界に座し居るなり。然して頭も天界にむけられ居るなり。頭のみ天界にはしらせて腹を地中に葬り去るは宜しからず。腹も頭も共に天界に送らずば、肉体は二分されて迷ふの他なかるべし。いささか諸子にはむづかしき理論にて解し難からん。是等の事柄を早く理解する修行をなせよ。さとりて見れば訳もなきことなり。
文字文章に囚はるることなく、我等の説より無言詞の声をききとる修行をなさざれば、我等の意中をくみとる事は難し。例へば汝等が世界にあらはされ居る易学に対して、易と云ふ文字の意味を誤解して、易と八卦を混同して唯物的の方向にのみ考へを廻らし居るが故に、八卦見と云ふ売卜者があらはれて、迷信妄信を易として、迷はせ居るが故に、正しき易の影は遠ざけられて、今や、その影を没せんとなしつつあるは、遺憾なりとミキョウの円海が語り居れり。実に尤もなることなり。易学とは明るき学問にして、迷信妄信にあらず。是を暗き学問となすによって、ここに雲泥の相違を醸して、正しきものは虐げらるるに至りたるなり。円海の如く易の蘊奥をきはめたる者にして、始めて天界の姿を観望し是によって、行を進めたるが故に、今やミキョウの座に引き上げられたるなり。八卦の言葉は符号にして、数学と何等異なることなく、謂はば易学とは有機数学にして成立し、哲学は無機数学として考究せば、大なる真理を発見することを得るなり。
 宗教はこの易学哲学より出でたるものなりと云ふとも差支なんらん。又何れが先にして何れが後なるかは問題にあらず。宗教は哲学易学を生み哲学易学は宗教を生みたりとして考ふれば可ならん。故に科学するものはすべて易学哲学を基として研究するにあらざれば、新しき発見をする事は難かるべし。科学者にとりて最も大切なるは哲学易学なりと云ふも過言にはあらざるなり。慈音は音響をききて天変地異を知ることをまなびたり。音響を聞きて是を易学の数より計算する事によって知ることを得るなり。音楽を学ぶものと雖も易学の力にあづからざるものはなきなり。是等は所謂一部分にすぎず。是を拡大強化してあまねく万般に渡って応用せば、決して迷信妄信なる言葉を口にすることなかるべし。唯八卦見となり居れば、其は悪戯ごとにて小児の玩具にすぎざるなり。

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