覚者慈音134  未知日記講義第一二巻  大霊界 自己の肉体に有する大霊界とは  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO91
      
自己の肉体に有する大霊界とは何処ぞ   その3
                                                                           教主寛大 講述


 とにかく物の真髄をきはむるにあらざれば、枝葉にのみわたり居りては到底物の理を明らむる事は得られざるは当然ならん。学者は己に架せられたる学問にのみ囚はれて、却って他を害すること多し。是等は慎まざるべからず。一つの話を聞きて其は迷信なりとして聞きのがし居らば、己が研究の力は進まざるべし。たとひ迷信なりと思ふ事柄に対しても、何かその中に潜在し居る有益なるものあらざるやと云へる点迄、思考力を延ばし居らば、その事柄より一つの道が開かれて己が研究の力となる事も多かるべし。学者は濫に物事を斥くることなく研究する力を養ふべし。然らずば大発見をなすこと難からん。
 現今の如く人間には魂などあるべきものにあらずとて、是を排斥する学者は多し。実に斯る者こそあはれむべき学者なり。余事はとにかく己が肉体に斯る大なるそなはりが架せられ居る事に着目して、研究を進むる人こそ真の人間にして決していたづらごとにあらず。たとひ世間より指指され嗤はるるとも、歯牙にかける事なく一心に研究の度を進めよ。されどあやまちたる易学哲学を学びて売卜者の如き愚を計ること勿れ。又あやまちたる哲学より世を害する如き思想を普及して、混乱に導く如きあやまちを冒すこと勿れと教ゆるものなり。
 汝等衆人は四六時中雑念妄念に閉され居るならん。その雑念妄念が何によって湧き出づるかを、根底より研究したることありや。是を学者に問へば、生理学上肉体神経のはたらきが、種々様々変化なし居るによってなりとのみ教ゆれど、そのよって来るところの原因に対しては、明確に答ふるものなかるべし。
 大凡大気中には種々様々の気波が流れ居りて、その雑音の波長が人々の肉体に感じ居ることを教へし学者はなかるべし。大気の雑音は分秒も静止するものにあらず。故に人体に感じ来る大気音波のあらはれが雑念妄念となりて、汝等衆人の肉体に種々の感じを与へ居るがゆえに、衆人は分秒も静止せずはたらかせ居るなり。もし大気音波が何等の動揺をなさずして静止すれば、汝等衆人の肉体の感じは無となることは云ふ迄もなし。大気音波のはたらきより、天変地異を知ることも得られるなり。されど言葉なきが故に、その来りしものが何なるかを推知することあたはず、是を言葉によって理解せんとの方法より案出したるは易の算数にして、その算数に意味を含ませて言葉にかへたるは八卦なり。故にその数が乾ならば、その乾と云ふものより広く言葉を考へて。是が何々に相当すとか云ふ明らめをなし居るなり。故に易学とは大気音波観測法とも見なして可ならん。無言詞とは所謂大気音波に他ならず。その大気音波の悉くが汝等の肉体と云ふ受信機に相当すと考へて研究せよ。然することによって新しき方法が案出せらるるならん。慈音が音波より今日は地震なりとか、或は天気予報を観察して過ちしことなかりしも、即ち大気音波観察法の一部を知りたるによってなり。大気音波は霊気によって現はされ居るものなれば、言葉なき言葉にして、自然の変化を伝へ居るが故に、是を受理する汝等の肉体が完全なる受信機ならばあやまつことなく聴取る事も亦見る事を得るなり。名づけて是を天眼通地眼通と云ふなり。是を誤聞すると云ふは、肉体の機械が受理する方法を完全にそなへ居らざるが故なり。所謂音楽家は雑音の中より正音を引き出して、その波長を明瞭になして聞きとることを得るを案出なしたるが故に、雑音の中に含まれをる種々様々のことが正音によって、その何なるかを鑑別するを得るなり。是等もみな易学の部類に属す。故に言葉は大切なり。されど現今の如く音楽を唯玩具の如く、取り扱ひ居る汝等諸子の世界にては、正しく且つ勝れたる音楽の真の尊さすら知ること能はざるべし。音楽は唯心を和らぐる方法なりとのみ考へ居りては、真の音楽家とは云はれざるなり。

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