覚者慈音132 未知日記講義第一二巻 大霊界  自己の肉体に有する大霊界とは  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO89
     
自己の肉体に有する大霊界とは何処ぞ   その1
                                                                            教主寛大 講述


 僕は昨日転記した内容を今確認した。これほどの教えをほんの僅かの人しか読んでいない。嗚呼、勿体ないことだなと心からため息が洩れる。凡心の僕ですらこの状況に切歯扼腕していると云うのに貴尊方は、そんなことには一切お構いなく、次から次へと講義を展開されている。現在の地球の人間達にはそれほど端から期待もされていないのだろう。
現在福音書に載っているイエスの言葉はほんの一部分なのかもしれない。大事な言葉の多くは雲散霧消して、その大部はすでに消滅してしまったのだろう。最初に集められたのはなんの知性もないただの漁師達であったという。そんな彼等がイエスの言動が何千年も残るなんて誰一人、夢想だにしてしていなかったに違いない。そんな珠玉の言葉の数々がすでに消えてしまったことにいまさらながら残念でならない。
 この未知日記の書の真髄を最初に理解するのは、どうも外国の人達みたいだ。国外で読まれたあとに日本でそれが再評価される仕組みだ。ホントいつもながら情けないことだと思う。


教主寛大 講述


 全宇宙のそなはりが縮小されて、現はされたる汝等が肉体なりとして考究するならば、肉体を支配するものは心にして、心を支配するもの魂なるべし。その魂と云ふは即ち無言詞階に匹敵す。然してその魂に通じてはたらきをなさしむるものは霊なり。この霊を大霊階と見て思惟せば、すべては解決するならんと思ひて修養の道を広くせよ。汝等衆人は天界を高きと思ひ下界は低しとして研究せば、是は有限性となりて終始の区定まるが故に、望みは叶ひ難し。天界は高き処にのみあるにあらず。低き処も亦天界なり。天界には上下高低の区別あらざるが故なり。我等が語る心ををちつけて深く深く掘り下げ、霊気に迄通ぜよと教ゆる言葉に対して、諸子は低き方に思ひをいたすは過誤なり。臍下丹田に心を押し込めて物事を考ふるを、低き方向に向かひ居ると思はば誤解なり。臍下丹田に心ををちつくるも、下界をねらふにあらず。即ち是等も天界へ天界へと進み居るなり。汝等が踏む地球の脚下には天界あり。頭上に輝く太陽の方向のみ天界として考ふるが故に、上下高低の区別を有すれど脚下にも天界あり。頭上にも天界ありとして考究するならば、上下高低の区を考ふる必要はなかるべし。
 大霊階は汝の肉体の全身を飽和して離れず、故に上下の区はあらざるなり。丹田にも天界あり。頭上にも天界あるが故に、何れに歩を進るとも迷ふことはあらざるなり。されど上下の区を考へて行ずるがゆえに、頭上を天界と思ひ、腹部を下界として取り扱はば、無始終にあらずして、有始終と化せられるによって、ここになやみを覚ゆるなり。無言詞階大霊階を知らんとならば、斯る考へを捨てて上下高低を考ふることなく、修養の度を高むべし。

×

非ログインユーザーとして返信する