覚者慈音131  大霊界とは如何なる場所か  その三  教主寛大講義



未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO88
      
    大霊界とは如何なる場所か   その3

                                                                            教主寛大 講述


 破滅なしたらば任務に服することあたはざるを知るによってなり。是等は無言詞より未来を覚りてなし居る姿にして、もし彼にしてそれを知らざれば肉体を苦めて破滅せしむるならん。彼は肉体が不憫なりとて要求するがままにまかせ居れど、決してきままをなさしめ居るにあらず。幾分たりとも肉体の恢復を得せしめんとして努力なし居るなり。是に対して泰岳円海は共に補佐し居れど、何れも意の如くならざるなり。(昭和二六年四月二四日)
 よって彼等はミキョウ。セイキョウ。テッシンに対して何とか方法を構ぜよ願ひ居れど我、是に対して許すことをなさざるによって、慈音の肉体は完全なる恢復は得られざるなり。是には我れも考へあり。されど此書には必要なければ語るを避くべし。とにかく無言詞より未来を知るが故に、慈音の考へと汝等衆人の考へとにはへだたりあることを教へをくに止めん。我等は慈音に対し法を教へざるなり。もし彼に法を教ゆれば彼は宗教者となりて、一宗一派をたつるやも計られざるによって、法を伝へざるなり。さればこそ慈音は一種の悩みを感じて、所謂天界と下界とのいたばさみとなりて苦み居るなり。彼は時には動物性なり、時には人間性となり、時には仏ともなりて、種々様々道を択び居れど、一宗一派をたつるにあらざるが故に、唯我等の教へをそのままに示し居るにすぎざるなり。所謂彼は我等のなわめに縛られ居るによって、或時は自由も得られ或時は不自由も感ずることは多々ありて、彼の悩みは筆舌の及ぶべくもあらざるなり。もし汝等諸子ならば到底この悩みを脱け出づることは難からん。されど慈音はすべてを我等にまかせて、決して不平を称へず愛すべき者なり。
 無言詞を聞く力そなはらば、慈音の如き一野人に於ても通達す。汝等衆人は智慧すぐれたるが故に、その智慧が禍をなして、無言詞を聞きとること能はざるなり。故に無言詞の力を聞く備はりを有する汝等諸子なれば、己が有する智慧を先づ捨てよ。赤裸々となりて無言詞の声を聴け。己が智慧を誇り居りては到底無言詞の何なるかは聞こへ難し。汝等衆人は頭より爪先迄衣を纏ひ居るが故に、見ること能はず、聞く事も能はざるなり。衣は肩より下迄に止むべし。頭より纏ふことは早く止めよ。

 名文美文と云ふも符号を巧みに組み合はせたるにすぎず。されどその名文美文によって感銘を与ふることは、即ち名文美文が生む無言詞は伝はるによってなり。
 我等諸子に対して霊とか、魂とか心とか語り居れど、すべては符号なり。汝等その符号を知るによって理解することを得れど、斯る符号を知らざるものに対して、語るとも通ずることは難からん。汝等符号に囚はれるること勿れ。符号なき言葉に着目せよ。符号なき言葉とは気の伝はりに他ならず。気と云ふも、亦符号なるべし。汝等十流界の人間が九流界の人類の語る声を聞くとも、如何なる意味かは理解し難からん。されど無言詞の声は十界百界悉くに通ず。全宇宙に伝はりて通ずるにあらざれば、無言詞にはあらざるなり。我、先に語りたる例話に、草の伸びる音を聞き居る人の話を、諸子は如何に聞きしや。草の伸びる音とは自然の音を聞き居ると知りて、此例話より何か覚るものはあらざるか。蟻の地上を匍匐ふその声もその足音も、是皆無言詞の言葉なり。鳥の啼く声梢をわたる風の音、みな無言詞に他ならず。

汝等よく口にする言葉に近頃人気は如何とか云ふあらん。人気とは有言詞よりあらはるる無言詞の集りを指すならん。故に人気と云ふも無言詞の部類に属す。又低気圧とか高気圧とか云へる、気圧の関係もみな無言詞なり。太陽の光明地球のはたらき等々すべて無言詞なり。又 
汝等に教へたる厳戒の辞、是等も無言詞をあらはさんがための符号にすぎず。わずか一六音より全宇宙に伝わりて通ずる無言詞を、わずか一六の符号にて知らしむる簡単なる符号が、伸びゆけば大なる威力をあらわす。斯かる尊き、否巧みなる名文は何処にある!仏教者の拝みする七字の題目六字の名号、是等もみな無言詞を現はさんがための縮小語なるべし。されど厳戒の辞とは相似て異なるなり。これが詳細を知りたくばセィキョウ。テッシンに聴け我、ここに語るを避くべし。汝等諸子は一寸先は暗の夜と思ひ居れど無言詞をきく力備はらば一寸先は光明の世界なり。故に明るし。無言詞界の奥には大霊界あり。大霊界ある故に、無言詞界のはたらきがなされ居るものにて、大霊界とは全宇宙の中心にして光明の世界とは、即ち大霊界を措いて他にはあらざるなり。この処迄帰るにあらざれば、神の世界とは如何なるものかを知ることを得ず。ここに帰ることによって実の親なる神に対面することを得ると知るならば汝等衆人の修行は前途遼遠ならん。屈せず撓まず一心に進まずば、望みの地点へ帰ることは容易のわざにてはあらざるべし。迷ひの心を起して傍路にそるることなかれ。迷はずば大自然の力は必ずや汝を、この処に帰らしめんこと疑ひあるべからず。

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