覚者慈音6      無限時間を永遠に旅する私たちの魂

無限時間を旅する私たちの魂

MILKさん、こんにちは
貴女の信仰とは何かについて、僕流に感じている考えを提示します。
そもそも私たちの魂は不滅界の末端より不滅界の中心に帰らんとする長旅を行っています。
私たちは始めから人間として置かれたのではなく、ずっと何十億年も前には小動物の時もあったことでしょう。その小動物にとっては大変な小さな川、低い山の数々を乗り越えてきました。そして、畜生という動物に生まれ変わる迄には大河も深山も越えて、今漸く人間という境涯に達する事が出来ました。ここまで来る間、私たちは筆舌に尽くせぬ幾多の難関を乗り越えてきました。今人間として生を享けている人はすべて大冒険家なのです。いまそれぞれが何十億年にも渉る自分の過去の姿を見せられたら、きっと一驚を喫するに違いありません。その長き足跡を眺めたら、今生人間として置かれている生命の尊さ、有り難さをつくづく痛感させられるに違いありません。そして人間市の歓楽郷に憧れる気持ちは至極当然なのかもしれませんが、この前途にはさらに天上界という眼に見えぬ大河が横たわっています。
旅は依然としてまだ途上にあります。その旅を放擲して、この歓楽郷で酔いしれていては、またもとの畜生町に逆戻り、更には何十億年前の小動物村に追い返される懸念すら出てまいります。しかも再び人間に生まれくる迄には又も辛苦艱難を要するは推して知るところでしょう。神があって、人間生命が一代限りとするならば、きっと神は私たち人間に色々な苦しみ、悲しみなどを一切与え賜わず、すべて喜悦の生活そのものをお与えになることでしょう。
しかし、人間は一代限りで生を終えるのではなく、今後無限の生命時間に耐える魂の錬成、そしてその強化を謀る意味で刻苦勉励を欲求されます。
今後その長旅に迷うことなく一心につき進むために、神との黙契とも云うべき信仰が必要なのです。神は瞬時も怠ることなく私たちの生活行動の逐一を御照覧くださっています。私たちが苦しい時、悲しい時を共に苦しまれています。人間の親子に於いてさえ、子供の苦しみは親の苦しみになります。ましておや、神の子である私たちにとって、神は一人一人に「頑張れよ、挫けるな」と慈しみと勉励の涙を流されておられるのだと思います。
信仰とは人間から神への一方通行の片便りではなく、相互通信できるものでなければなりません。
それを行える唯一の方法、以前お伝えした厳戒の辞に他なりません。milkさん幾度も幾度もあの箇所をお読みくださいますよう。
ではまた

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