覚者慈音129  大霊界 大霊界とは如何なる場所かその三  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO86
      
    大霊界とは如何なる場所か   その3
                                                                               教主寛大 講述


 汝等衆人の中には世渡りの苦痛に堪えかねて、親子一家自殺をなす如き事は、日々絶えやらずあるを我等はよく知る(昭和二六年四月二三日記) 
されど我等は是等に対して憐れみの心よりは、寧ろその罪を厭ふなり。斯る人達は心のみの働きにて未だ魂のはたらき備はらざるが故なり。是等を仔細に検討すれば、自殺せずとも可ならんにと思ふこと多き故なり。神より授けられたりと云ふ信仰心なきによって、己一人の苦みに堪えかねて何も知らざる小児迄死を与ふる如きは、神をおろそかになしたる結果なるが故に、我等は厭ふなり。是等の道理はくだくだしく述ぶるの要もあらじ。汝等衆人の心より考へを進め見よ。其等は未だしも他人の苦しみを聞きて是に同情し、共に死を択ぶ人も多く見らる。是等は実に滑稽と云ふの他なし。他人の苦みを聞きて己も共に死して何の益かある。動物性の人間には、斯くも誤ちたる考へを有する人は多し。故に宗教者は努力して斯るものを救ふ方法を、教ゆることに力めなば如何にと思ふなり。無神論者無宗教者は神などあるべきものにあらず、もしあるならば神に願ひ見よ。飢えたる時一片の食すら得ること難からん。よって神など信ぜんより、人を信ぜよなど説き居るものに対して、宗教者は是等の人を屈服せしむる事すらなし難きことにて、宗教の論説を如何に口賢く語るとも、是等は真の宗教者にはあらざるなり。
 我、無言詞階大霊階のことを語るに対して、かくも余事にわたりて論説をはしらせ居るは何故かと云ふに、無言詞階及び大霊階のそなわりあるによって、汝等衆人の心魂霊ははたらきをなし居ることを知らしめんがためなり。心の無言詞、魂の無言詞、霊の無言詞等々の区別を、深く認識するにあらざれば、無言詞階及び大霊階の様は知ること難きによってなり。次に一例を掲げて参照とせん。
 一枚の紙に円周を描きてその始終を考へ見よ。何れが始まりにて何れが終りなるやは、一見しては解することあたはざるならん。又汝等諸子の肉体は何処がはじまりにて何処が終りなるや。其すら知ること難からん。一本の樹木は根がはじまりにて梢は終りなりと云ふことは誰も知る。されば地球は何れがはじまりにて何れが終りなるや。太陽は如何。一枚の紙にかきたる円周は、紙がはじまりにて、円周が終りなりとは誰も知る。その紙のはじまりも亦仔細に研究せばこれも亦明白ならん。一個の罌粟粒が何れがはじまりにて何れが終りかと訊かれなば、一見したるのみにては答へに苦むならん。是等もすべて形あるが故に研究すれば、終始の区は明らむることは得れど、汝の心は何処にありや。然して形は如何にと問はれて答へに苦むならん。されど汝には汝と云ふ肉体のそなはりあるによって、そのそなはりに対して宿り居る心なれば、終始の区は知ることも得らるべし。
 太陽系宇宙と雖も仔細に検討すれば、その始終は明らむることも難きにはあらざるならん。されど全宇宙の始終はと追究さるれば、最早是に対して明確なる答へは不可能ならん。是等に関しては、原子とか電子とか、分子とか云へる説明より答ふの他なし。されどその電子原子等は何によって作られしか、又如何なる原因ありて其がはたらきをなさしむるかと次第に追究されなば、最早答ふるのすべを知らざるべし。唯かかるそなはりあるによって、斯る宇宙は成立たりと云ふの他なかるべし。全宇宙の蘊奥をきはめたるものにして、始めて是に関して答ふる力そなはる。されど諸子に対して斯る事を語らば、汝は狂人なりとして歯牙にはかけざるならん。恰も小児が母に向ひて其よりは如何になるかと、次より次へと質問されて、答へに苦むと同様ならん。然るに我等の如く諸子に対して天界の事を語らんとするに対して、我等は知らざることを語るにはあらず。知りたればこそ語るなり。

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