覚者慈音128   大霊界  大霊界とは如何なる場所か その三  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO85
      
    大霊界とは如何なる場所か   その3
                                                                               教主寛大 講述


 霊気は同化力を有するが故に、互いに交はる素質を有す。人の心も霊気なるが故に、交はらんとする方向にむけられ居ることは察せられるならん。愛する云ひ憎むと云ふも、交はらんとする心より生ずる現象にして、その方向の如何によって或は愛となり、同化せずば憎しみと変ず。他人に媚びを売るも同化せんがためなるべし。同化力の強き人は、多くの人を集むる素質を有し、是に反するものは孤立して爪弾きせらるる人となる。此理より考ふれば霊の力は引力ともなり、又圧力ともなる関係あるならん。さればこそ空間には、風力の断間なきなり。海の水の動ずるも皆この理なるべし。然しながら帰するところは同化せんがための引力圧力にして、最後は同化に帰せしむることを得るならん。己他に同化せんとする素質あるによって、愛する心も生じ憎しみの心も生ずるなり。此理より考察せば愛する心は、引力を伴ひ憎む心は圧力に変ず。最後の結論は同化せんとするを主眼としたる目的によって、方法として愛を用ゆべきか、憎悪を用ゆべきかの心を定めざるべからず。愛の裏面には憎しみを伴ひ、憎しみの裏面には愛を伴ふ。故に何れか一方にのみかたより居りては、同化の力には強弱を生ずる事は是又道理なるべし。さればその方法として愛憎共に一体化したる方法を択ばざるべからず。されば愛に対しては其度を強くして慈愛の心を延長せずば、憎しみの影は消滅せざるべし。是と反対に憎しみの心を強くせば、愛の力は消滅す。故に心の愛は愛憎を共にし、魂の愛は何れか一方に偏し行くは理なるべし。セイキョウ、テッシンが語りたる如く大悪人は大善者なり。大善者は大悪人なりと語りしは此理に基く。されど大慈大悲の霊気に化せしめられたるものは、真の霊気に同化したる人にあらざれば得難し。大慈大悲の霊気に同化したる人はすべての大悪は、消滅して影を没す。故に悪はなさざるなり。愛するが故に憎むと云ふ如き、愛にはあらざるなり。この愛を名づけて大慈大悲の心と云ふ。この心迄魂に従はしめざるべからず。然する事によって完全に同化して、世を救ふ力を具ふるに至るなり。その所迄至らずば如何に論説をたくましくすとも、其等は空論に終らん。
 斯くすれば斯くなる結果を招来すと知りながら斯くせざるべからずとの、止むに止まれぬ心より、己の生命すら捨つる人もあるならん。己を犠牲にしても世を救はんとする大愛の心に迄、化せしめずば真の人間とはならざるなり。果して斯る人は幾人ありや。汝等諸子の世界の歴史をひもときみよ。余り多くはあらざるならん。先に語りし剣客の極意の短歌をひけば「ふりあげし刃の下ぞ地獄なり、身を棄てて見よ極楽もあり」とか云へるあらん。己を守らんとして却って己を亡ぼす。己を捨てて己を安らかにすとの意味は、他を害せんとするは動物性にして、己を捨つるは最早動物性を抜け出て、人間性となると云ふ意味に、解釈するも過誤にはあらざるならん。是等はすべて心の教訓に他ならず。これを延長して魂の教訓に迄進むれば、斯る危険はあらずしてすべてを安楽に化せしむる方法は得らるるなり。心と魂の相違は斯くの如き隔たりあるなり。斯くすれば斯くなりて己の生命を失ふと云ふも心の智慧なり。又剣客の短歌も心のはたらきにすぎず。是が魂の働きともならば斯くすれば斯くなると云ふ如き考へを要せず。剣客の如き身を捨てて極楽を択ばずとも、常に極楽は現出するが故に過はあらざるなり。又己が生命を失ふ如き事をなさずとも、道は開らかれて相互が安楽の境涯に入ることを得るなり。

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