覚者慈音109  未知日記講義第一二巻  大霊界 未来観 その三  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO67                                      未来観 その三                                                                  教主寛大 講述


 諸子は米の何なるかをよく知る如く、人間の造主なる神は人間の何なるかを知り給ふならん。人間は己自らを知らざる如く、米は己の何なるかを知らざるべし。米は作らるるままに育ち、人は育てらるるままに育つ。然して神より与へられ居る肥料の吸収を怠りて無意義の生活をなし、肉体のみ肥え太らせ、其にて何等なすこともなく終る人の多きは、恰も米の年々不作にて終ると同様なるべし。地味肥えたる場所に香木を植えず、徒に雑草のみ繁らせ居る事に対して、諸子は勿体なしと云ふにてはあらざるか。然るに己自らは煩悩心と云ふ雑草のみ繁らせて地味の豊なるに不拘、是に何等の施す術を知らずしてそのまま放棄なし居るにてはあらざるか。宗教者は是に対して種々様々法を説き居れど、彼等自らも共にその煩悩心を浄むることあたはず、却ってあやまちたる考へより、尚一層煩悩心の雑草を育て居る結果となり居る事も、諸子は既に知り居るところならん。宗教も末路に至らば、斯くも誤ちたる方向に向ひつつあるが故に、軈ては亡ぶるの他なかるべし。
 余事は兎に角煩悩心の雑草を繁らせしのみにて肉体を終らしむるならば、無始終霊子にその悉くが分解されて種々様々異なりたる方向に、又新しく芽を出し、雑草は益々繁り行くの他なかるべし。人身一代何事もなさず何等の施す術をも知らずして、そのままに朽ちはてぬれば、その一個の肉体が各方面に分解されて或一部が草木とも変じ、或一部が動物とも変じ、種々様々のものとなりて世にあらはれ、其中の正しき部分は進化して、今後再び人間に化せられる迄の長き苦みは、一朝一夕の事にあらず。斯る事を繰り返し居りてははてしなき苦患を味ふの他なかるべし。その事より思へば今日人間となりたる我の前生は、蟻なりしと云ふも敢て迷信にはあらざるならん。汝等諸子は進化論より人間の祖先は貝なりしなど語り居るにてはあらざるか。よし其が事実として考へ見よ。貝が人間となる迄の経路は汝等諸子の時間空間より考ふれば、何万年何億年の後ならではなり得らるるものにあらざる道理より、今日人間として置かれたる己の経路は、長き時間を経過して、その間種々様々の苦患を味ひ来りしにてはあらざるか。然るに己人間として置れたるに不拘、今後の任務を考へずしていたづらに放棄なし居りては、勿体なしとの念は起らざるや。考古学上より過去の貝なりしと知るならば、未来学を推考せば人間は如何なるものに化せられ行くかも推知することを得る道理を何故研究せざる!汝等諸子は人間ともならば既に最高位に置かれたるが故に、其以上変化するものにあらずして、唯そのままに朽はてんとなさしむるは愚も亦甚だし。人間となれば未来は尽きるとの考へより、人間一代にて世を終らば其以上は無の境涯に入るが故に、世には神仏など云ふべきものなしとて、無神論を盛にふりまわす人は多し。是より未来観の詳細を説明して、汝等諸子がひたすら悩み迷ひを覚え居ることの疑をとかん。

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