覚者慈音107  未知日記  大霊界  未来観その三  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO65                                     未来観 その三                                                                  教主寛大 講述


 此事より考察すれば人間の位置にをかれたる喜悦に対して感謝せざるべからず。人間に生まれて何になる事ぞなどの明らめは、過去の苦痛を認識なし居らざるが故なり。汝等諸子は人間より進みて菩薩の境涯に入り、或は仏の境涯に進むとし、其は何になる事ぞなど考ふること勿れ。
仮に今人間なりし身が忽ち菩薩或は仏の境涯に入りたりと考へ見よ。菩薩になりても仏になりても、過去の人間とは如何なるものなりしかを知らざれば、現在の人間が何になる事ぞと思ふ如く菩薩も仏もみな何になる事ぞの思ひにて、感謝感激の念は生ぜざるべし。何になる事ぞは余儀なき放棄の諦めに他ならず。
己の分野を知らずして空しき放棄的の諦めをなし居らば、進化の道は閉ざされて一歩も進むことを得ざるなり。進まずば其れにて止まる。休止してその居に安んじ居らば最早絶望の身となり、
恰も死後の亡霊が宙にさ迷ひ居る如き結果となるの他なかるべし。前に未知日記に於て神になりて何になる事ぞと思ひ居りし人が、神の傍らに呼び寄せられてはじめて真の明らめを得たりと云ふ例話を諸子は読みたるならん。彼は神になりて何になる事ぞとの諦めより、すべてを放棄なし居らば、そのさとりは得られざりしに不拘、偉大なる神の思し召しによりて引き上げられたるが
故に真のさとりを得たるなり。
神の愛は斯くも深し。彼は神になりて何になる事ぞと思ひ、
又一面神になりたしとの思ひが潜在なし居りしため、勧められし人の言葉に、従ひたればこそ、大なる恵みを得たるなり。
彼を神の所迄運びたる指導者の力なかりせば、彼はその恩恵に浴する事能はずして宙に迷ひしならん。(未知日記前巻を参照せよ)
 無言詞界は無始終なるが故に進退共にきはまりなし。
さればこそ迷ひは深刻となるなり。進むと思ひし事が退く結果となり、退くと思ひし事が進む結果となる如き事は少なからずあるなり。是即ち何れを始めとし何れを終りとの定まりなきによってなり。故に如何に修養修行すとも、是にてよしと云ふところはなし。故に全宇宙の全部を知り尽してはじめてすべてを知る。是道理なるべし。すべてを掌中に収めてはじめてその全部を見る事を得れど、然らずば部分的に見聞なし居りては、到底蘊奥を究むることは困難なり。全宇宙をわがものとなしてはじめてその悉くを知る。その全宇宙となし居るものは誰ぞと仔細に思惟せば、神とは如何なるものを云ふかの理は明らかとならん。
又不滅の原理も従って推知する事を得ん。大霊界は即ち是なり。
始なく終りなきが故に過去もなく又現在もなく未来もあらざるなり。部分的の考察より推理せば、三世は成立することも推して知らるるならん。汝等諸子の肉体を部分的に考ふるが故に、一部のはたらきが静止すれば他の部分も共に静止すとの考へより、種々様々の研究がなされ居れど、肉体の全部を無始終として考ふるならば、研究の方法も従って異なる考へが新しき発見を与ふるならん。

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