覚者慈音106   大霊界  未来観  その三  教主寛大講義


未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO64                                      未来観 その三                                                                  教主寛大 講述


 有形と有形の対立は形あるが故に種々様々の論議が交はさるれど、無形と無形の対象は、無形なるが故に是を明らかならしむること難からん。無形と無形を交はらしめて有形に化せしむれば、はじめて結果は明らかとなる。この理は諸子も認識する事を得るならん。全宇宙は無形と無形の集合によって有形が組織され、其が次第に種々様々変化して、現在の姿となりたる理論より、順逆両道にわたりて、工夫するならば更に新しき発見は、得らるることも亦察することを得ん。すべて是等は未来観を知る一種の定規とも見らるるなり。此事あるによって虚説も実説の如く思はるるなり。さればこそ諸子は嘘より出でし真と云ふ言葉すら用い居るならん。例へば我の過去は蟻なりしが、正しき行為をなしつつありしによって、今は人間と迄進化したるなりと云へる如き虚説も、或は然ありしかなど考へらるるに至るも是未来観の部に属す。亦嘘より出でし真とも見らるるやも計られざるなり。
 大自然に順じて経路をあやまたずふみ来るならば、或は蟻も人間と迄進み得るやも測られざるなり。何となれば全宇宙は無始終霊子によって組織され、其が今日に及びたるところより推考するならば、蟻も人間となるに何等不審することなからん。是等も時間空間より考察するが故に、虚説として排斥すれど時間空間位置を考へずば、敢て虚説として葬り去るにも及ばざるならん。
 易学の中には人相家相方位方角等の書籍も数多著はされ居れり。是等に関して現在の学理より推考する時、何等とるに足らぬ迷信なりとて排撃せられ居れど、真の未来観より考察するならば、すべてを迷信盲信として斥けるにも及ばざる事柄多々あるなり。例へば家を建つる時方位方角をたしかめずして建設するならば、空気の流通あしく、ために病人の出づるは家相の悪き故なりと云ふも、敢て迷信にはあらざるなり。円海の如く易学の蘊奥を究めたる者は、是によって正しきさとりを得たるなれど、其学理を究めずして枝葉にわたりたる者には、過誤多きことは往々見受けらるる処なり。然るに現在は易学など何等の価値なしとして排斥なし居る事はあまりに智慧なし。円海は易学を基して現在の科学を考察なし居るが故に、彼は現在の科学者として見るも決して他のものに劣ることあらざるなり。現在やかましく唱へられ居る原子理論に関しても、円海は既に遠き昔より彼はこの理を究め尽しありしなり。彼は其以上の学理の蘊奥を究め居る大学者にして、汝等諸子の世界に今尚居を有し居るならば、彼の新しき学説は地球上に於て大波紋を巻き起こすならん。されど斯る微々たる事を彼は念頭にはかけ居らざるなり。天界の極妙より汝等の世界を観望するならば、実に小児の悪戯ごとをなし居るにすぎざるが故なり。されど諸子の世界は未だ進化なし居らざるが故にその程度にてよし。
 天界は広大無辺なるが故に、如何に智能をはたらかすともその蘊奥を究むるあたはざる底の所なれば、延びるにまかせ上昇の一路を辿り、その極妙に入らんことを望むに不如。円海とミキョウとのへだたりは赤子と父母とのへだたりよりも尚遠し。然し彼はミキョウとなりて尚勤勉努力なし居れど、今尚セイキョウの位置にすら進むことを得ざるなり。斯くも深淵きはまりなきが故に、修養修行を疎略になすことなく努力すれば、諸子と雖も何日かはその妙を究むる事難きにはあらざるなり。是に反し逆行の一路を辿れば又もや転落して是又、はてしなき居に苦むの他なかるべし。汝等今日の人間に迄進化なし来りたる経路は、一朝一夕の苦みにあらざりしなり。

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